わたしの分娩
娘は私の疲労回復剤
小上馬 美千代
1
1大阪厚生年金病院産科病棟
pp.42-43
発行日 1965年11月1日
Published Date 1965/11/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611203078
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つらかったつわり
昭和38年12月4日は,長女の分娩予定日であった.4月の中ごろから強いつわりがはじまり,それが2か月間続き,産前休暇に入るまで気分の悪い日の連続であった.そのころ,産科病棟勤務だったので,深夜勤務に起きてはゲーゲー産婦の吐物を見てはゲーゲー,こんな状態で産休に入るまで勤務ができるかどうか心配だったが,人員不足のため休みもとれないまま出勤していた.つわりの軽い人をうらやましく思った.もう一つ辛かったことは,分娩室からのブザーで,5人も6人も経過観察の産婦が入院していると,「アッ経産婦の破水かな,全開大じゃないかな」と一瞬ドキッとして,分娩室にかけ込む日が始終あり,こんな勤務状態では,流産でもすればたいへんだと心配だった.自分のお腹をおさえて「もう少しがまんしてネ」と思わず口にする日もあった.妊娠6か月の中ごろ内科外来に勤務交代させてもらい,ちょうど7月の暑いさかりだったが,病棟でかけずりまわったり,夜勤をするよりもだいぶからだが楽だった.もうそろそろ胎動を感じるころだったので,どんなふうになるのかなと心待ちにしていたところ,7月25日お腹がピクッピクッと痙攣し,ちょうど寝不足の時に目の下が痙攣する時のようだった.これが胎動なのかしら,いっそう子どもに対する愛情が湧いてきた.
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