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柳田の実家は理髪店だ.私が幼い頃,両親は夜中0時まで働いていた.私には両親と寝た記憶もお風呂に入った記憶もない.父は華道と茶道の師範代というのもあり,礼儀作法,言葉遣い,立ち振る舞いや顔の表情,身なりなどにも厳しかった.例えば朝「おはよう」と言うと「親には“おはようございます”だろ」とひっぱたかれる.しかも親より先に子から挨拶しないとひっぱたかれる……とにかく厳しく躾けられた.私は家にいる時間が一番恐怖で苦痛だった.父に抱きしめられた記憶も手をつないだ記憶もない.私が自分で生計を立てられるようになり独立した日から,父は一切何も言わなくなった.厳しくしたのは,子が親の保護下にいる間の“親としての責任”だったらしい.
8年前,父は二度脳梗塞となり回復したが,その後,末期の大腸癌(肝転移あり)が見つかった.父はどんなに痛くても,辛くても,「俺のことは心配するな.仕事を頑張りなさい.自分のやりたいことをやりなさい」と常に言っていた.私が仕事でもなんでも全力なのは,幼い頃から父に言われてきた「明日死んでも後悔しないよう,一日一日を全力で生きなさい」という言葉を守るためだ.そしてそれは,父に認められたい一心で必死に守ってきた.月1回以上は帰省し,仕事の話を父にたくさんした.厳しい父に認められたくて褒められたくて必死に生きてきた.だが父は,先日他界した.私は「父に何もできなかった.親不孝者だ」と嘆いていた.その数日後,遺書が出てきた.母宛,兄宛,私宛の手紙も入っており,私宛の手紙には「こんなに親孝行な娘とは思わなかった.君の父になれて 思い出を残せて 感謝」と書いてあった.いままでもこれからも,人生で一番うれしい言葉を父はくれた.私の中にあった大きくて重たい何かが消えて「これでよかったんだ」と思えた.この言葉がなければ,私はこの先ずっと「父に認められたのだろうか.愛されていたのだろうか」と悩み続けたと思う.きっと父は,そんな私の性格をわかっていて,この言葉を書いたのだと思う.いなくなった後までも私を支えてくれる,最高に強くて優しい父だ.「この先も父の自慢となれるよう,全力で生きよう」と次の目標が決まった.
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