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トーマス・マンの『トニオ・クレエゲル』に病と創造性の関係という病跡学的な見解が示されていることは既に述べた通りであるが(総合リハ28:786,2000),トーマス・マンの病跡学的な作品の頂点に位置すると思われるのが1947年に発表された『ファウスト博士』(関泰祐,関楠生訳,岩波書店)である.『ファウスト博士』は,最晩年に重篤な精神障害に陥ったニーチェをモデルに,梅毒の感染によって狂気に至る音楽家を描いた文字通り病跡学的な小説なのである.
この作品の冒頭部分では,主人公のアドリアン・レーヴェルキューンを「天才音楽家」とみなす立場から,天才には「魔神的(デモーニッシュ)なもの,反理性的なものがうす気味悪く関与しており,それと暗黒界とのあいだには,常にかすかな戦慄を催させる関係が一すじつながっていて」,健康的とか調和的などという形容詞はあてはまらないという見解が示される.また,アドリアンの人生を語る部分では,「魔神的(デモーニッシュ)な影響を受けている天才」という,プラトンの『パイドロス』(総合リハ39:86,2011)を思わせる表現をはじめ,病と創造の関係を強調した次のような記載もみられる.すなわち,「芸術家の流儀と本性は周知のように両方向の放埓に傾き勝ちで,少々度を越えるのが正常だ.その場合常に振子は快活とメランコリアのあいだを大きく揺れる」という躁うつ病を思わせる気分変調,「病気,それも忌むべき,目立たない,秘密の病気は,世界に対し平均的人生に対して,ある種の批判的な対照を生み,市民的秩序に対して反抗的で皮肉な気持ちを抱かせる.そしてその病気にかかった男に,自由精神,書物,思想に避難所を求めさせる」という病による日常性への批判的な態度,「芸術家は犯罪者,狂人の兄弟だ.作者が犯罪者や気ちがいという存在に通じていないのに,何かおもしろい作品が生れたなんていうことがあるなどと君は思うのか?」という芸術家と犯罪者や狂人との類縁性,「天才を授ける創造的な病気,馬上高く障害を飛び越え,大胆に酔い痴れて岩から岩へ疾駆する病気は,徒歩でとぼとぼ歩く健康よりも生にとって千倍も好ましい」という病気による創造性の促進等々.
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