- 有料閲覧
- 文献概要
わが国は疾病構造の変化による長寿化社会を迎え,もう一度医の倫理の原点に戻って医療を再構築していく時代にきている.医療もこれまでの臓器医療から,患者を疾病をもつ人間としての立場で治療する必要性が再確認されつつある.これと同時に,医療の中で従来にもまして看護,理学療法,作業療法,ケースワークのニーズなり,その果たす役割が大きくなってきている.“キュア(Cure)よりケア(Care)へ”との言葉がこれを端的に表現してよう.しかし,このキュアとケアという外来用語は,現在のところ必ずしも明確な理念や行動の中で用いられているとはいいがたい.地域リハビリテーション活動のシステム化の必要性を感じ,実践してきた筆者にしても,この定義づけは過分な任である.御批判をいただくための叩き台として,キュアとケアの言葉を次のように考えてみた.
キュアという言葉はDorlandの医学辞典によると,疾病や創の治療過程や治療のシステムをさすとされている.つまり,このキュアが治療の行為そのものを指すことには異論はないと思われる.しかし,これまでの医療が,医師の極めて強い主導性の中で行われてきた過程で,この治療にかかわる医師と他の医療専門職間で,特に看護職との関係で若干の問題が投げかけられていることに注目する必要がある.看護業務の中の「診療の補助」はキュアとして,医療の場面における看護として位置づけられており,医師の立場からすれば極めて重要な義務である,しかし一方では,この診療補助はキュアという言葉からすれば,その業務は極めて受け身的で従属的であり,看護婦の主体性が無視されているとの批判がないでもない.本来,看護業務は,十分な専門的な知識と技能を積み重ね,これに基づく冷静な看護判断をもって,より主体的に医療にかかわっていくべきものであろう.筆者は米国での病院勤務や,またヨーロッパにおける訪問看護婦の極めて主体性をもった素晴らしい看護活動を通じて,わが国での医師の権限が少し強すぎるために,セラピストを含めた関連医療職の主体的な動きが抑制されているように思われてならない.
Copyright © 1991, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.