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Ⅰ.看護婦養成の歴史
戦前の日本の看護教育は大きく2つの型に分けることができる.日本での組織化された看護婦は明治20年(1887年)前後に始まるが,当初はかなり高いレベルの教育をめざしており,桜井女学校や同志社に欧米から優秀な看護婦を指導者に招き,キリスト教精神にのっとった西欧式看護学校が設立されている.やや遅れて日本赤十字社(以下,日赤と省略)でも看護婦養成が始められた.これらの高いレベルの看護婦養成に対し,もうひとつのタイプの養成は自由開業医制の医療体制のもとで開業医が自分の必要に応じその補助者を訓練した見習看護婦制度である.レベルの高い第一のタイプの養成は残念ながら数的にも少なく,やがて軍国主義の色彩の強くなる社会情勢の中で,多くはおとろえたり,形をかえたりしていった.従軍看護のカラーを持つ日赤は社会的にも特異な存在で,高い名声を保っていた.しかし,戦前の看護婦養成の主流はどちらかと言えば第二のタイプで,高等小学校を卒業後1~2年の修業で資格をとるという程度のものであった.男性優先の当時の社会的背景の中で職業としての地位も高くはなかった.戦後,看護婦養成制度は,占領軍政策の一つとして大幅にレベルアップされた.医療制度の不備が指摘され,医療技術者の質の向上として看護婦養成を専門学校程度とするという意見が提唱され,紆余曲折を経て,昭和23年(1948年)に公布された保健婦助産婦看護婦法(以下保助看法と省略)によりこの制度が実現した.保助看法では看護婦を甲種と乙種にわけ,甲種看護婦は厚生・文部大臣の指定した看護学校(高校卒3ヵ年)を卒業した上,国家試験に合格した者に対し厚生大臣が免許を与えることとなっており,乙種看護婦は厚生・文部大臣の指定した中学校卒後2ヵ年の学校,講習所を修了した上,都道府県知事の行なう試験に合格した者に都道府県知事が免許を与えることになった.この改革の根拠には日本の医療制度全体の改革があり,戦前の自由開業医制度から国の責任において国民に適正な医療の提供を約束する医療の公共化が推められていた.昭和23年(1948年),国立病院が「公的医療機関の模範として,また医療関係者教育の機関」として発足し,この国立病院に附属して17校の看護学校が誕生した.これが日本で初めての公的機関での看護婦養成である.また,日赤も新たな思想のもとに再出発し,医科大学または大学附属の看護学校もこれに加わり,これらが当時の甲種看護婦養成機関である.その数は昭和25年に88校となっている(表1).
その後昭和26年に保助看法の一部が改正され,看護婦の甲種,乙種の区別を廃止し,「看護婦」即ち職業看護婦(Professional nurse)一本建とし,乙種看護婦は看護婦を助ける要員として准看護婦(assistant nurse)と名称を変え,同時に養成所の指定を厚生大臣から都道府県知事にと変更した.この制度は大筋において今日まで続けられている.
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