The Japanese Journal of Physical Therapy and Occupational Therapy
Volume 18, Issue 10
(October 1984)
Japanese
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Ⅰ.はじめに
障害児と一口にいっても,その障害の種類や程度は多様である.したがって彼らのための教育も内容的には著しく異なり,歴史的なその経過も一様ではない.
わが国の障害児教育は,明治11年(1878)の京都における盲啞院の設立にはじまるといわれる.盲・聾の教育はその後も他の障害児教育の分野に先行した.明治23年(1890)石川倉次らによる点字の完成,手話法に加えて口話法の導入などという教育技法の開発により,その教育効果もあがり,また大正12年,勅令によって盲学校,聾学校の設置が自治体に義務づけられることになり,比較的順調にその教育体制が整えられていったのである.
一方,精神薄弱の分野では,児童の教育はまず社会福祉事業の領域ではじまり,学校教育は明治23年(1890)の長野県松木尋常小学校における学業不振児学級の設置までまたねばならなかった.しかも,この分野では精神薄弱児を教育するという教育理念の面と,その教育技術の面の双方から,その発展は制約され,昭和6年(1931)にやっと全国で100の特殊学級を数えるにいたったものの,戦時色が強まるにつれてその数は逆に減少し,発展は戦後に待つことになったのである.
肢体不自由教育は更に遅れた.この分野では当初より療育という医療と教育の密接な協力関係が求められ,その最初のものは大正10年(1921)の柏倉松蔵による柏学園である.しかしこれはいわゆる学校ではなく,教育の世界では昭和7年(1932)東京光明学校の設立が最初となった.
同校の教育は,普通教育のほか職業教育,身体の治療と矯正,および養護という4つの領域から成り,具体的には週2・3回の整形外科医の診察,看護婦による毎日の治療訓練,更に毎朝の体温,脈拍,呼吸の測定と肝油の投与など,著しく治療的要素の濃いものであった.それは多専門性の一種のhospital-schoolとでもいえるものであり,わが国の肢体不自由養護学校が,そのような形態から出発したことは記憶にとどめておくべきであろう.
障害児教育は戦後になり,関係者の努力と一連の教育政策によって次第に開花していくことになる.肢体不自由の世界では,肢体不自由児施設という医療・福祉事業が先行し,教育はその施設の収容児童の学級という形をとった.しかし次第に通学する児童も含められるようになり,同時に施設より離れて独自の学校経営をめざす傾向も生れた.こうして昭和31年(1956)大阪府と愛知県ではじめて養護学校が設立されたが,以後この傾向は次第に加速され,昭利44年(1969)ついに肢体不自由養護学校全県設置をみるにいたるのである.
その後,昭和46年(1971)になり学習指導要領の大改訂が行われて,教育内容の一層の充実化がはかられ,また昭和54年(1979)には養護学校義務化の実現をもみることになった.こうして障害児教育は基本的には制度として一応完成するにいたったが,内在する種々の問題が次第に顕在化し,今日なお多くの課題を抱えている教育分野と考えられるのである.
以下,障害児教育とくに肢体不自由教育を中心とし,その現状を展望という与えられたテーマを私見をまじえて論じてみたいと思う.
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