The Japanese Journal of Physical Therapy and Occupational Therapy
Volume 17, Issue 2
(February 1983)
Japanese
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Ⅰ.はじめに
我が国において,諸外国に例を見ない速度で社会が高齢化していると言われ,老人問題がクローズアップされてきている.核家族化と老人,制度としての年金,医療保障や福祉サービス,延びた寿命と増えた心身機能低下老人など,拾い出せば枚挙に暇がない.そしてそれらの問題は,人が老いることによってある機能を喪失してゆくということに,起因しているとも言える.衰退の時期,喪失の過程とは,たしかに老いのひとつの側面である.が,そのマイナスの側面だけで老いを捉えるのは,片手落ちであろうと思う.老年期が,衰退,退化の時期と捉えられたがために老人がリハビリテーションの対象から除外された例が,過去にはあった.現在でも,病院で片麻痺の機能訓練をやったのに,家に帰ると動かなくなってしまう老人の例を多く聞く.ひとつには,リハビリテーションに携わる者の“老い”に対する認識の暖昧さ,視点の不明確さに因ると思う.
心理学において,老年期を単に成長,発達,衰退,退化という枠でとらえるのではなく1),発達の一過程として成長,成熟(完熟期)と衰退(衰退期)の両面から捉え、これらを統合して考えてゆく,という立場の必要性2)が言われている.これは,我々老人のリハビリテーションに携わる者にとっても,重要な視点であろう.
ヘミングウェイは,精神的にも身体的にも申し分ない機能レベルを保っていたが,「人にとって最悪の死とは,自分の生の中心を形づくり,自分を真に自分たらしめるものを失うことだ…….」と書き,そして自殺した3).これは,生を謳歌した大作家の,誠に鋭い指摘だ.そして,この言葉の中には,ひとつの重要な鍵がある.「自分の生の中心を形づくり,自分を真に自分たらしめるもの」が人を生かす,ということだ.そこで,老化が「自分を真に自分たらしめるものを失うことだ」というひとつの指摘に対し,筆者は「自分を真にたらしめるもの」を,それぞれの年齢にふさわしい形で持つことはできないのだろうか,という疑問を,今は亡きヘミングウェイに投げかけたい.いや,そのように考えない限り,彼のように自殺するしかないではないか.
“老い”を若い時に使用したひとつの尺度で図ろうとすると,マイナスの要因が出てきてしまう.これでは決して問題の解決になうない.“老い”を活動形態の変化として捉える必要がある.それが,老いを発達の側面からみるひとつの見方だと思う.
老年期の特徴のひとつに,膨大な余暇時間がある.職業や義務,煩雑な日常の家事から解放されて後に残るものは,活性の低下した心身と使いきれない時間である.
余暇時間を無為に過ごす老人は,我々に不本意感を印象づける.無為でいることは,自己喪失感をもたらす.そして,知的にも身体的にも,廃用性の機能低下をもたらす.
ところで,何が無為の原因となるのであろうか.身体機能の低下,特に脳卒中による片麻痺などの急激な機能低下は,たしかに無為の状態をもたらす.しかし,筆者の印象では,それは直接の原因ではない.身体機能低下によって従来の生活パターンの変更を余儀なくされ,変えられた生活パターンに適応できない状態が,無為を導く.我々は,自分の心身機能,生活パターン,生活の場を掌握して,初めて自発的活動を行うことができる.老化への適応とは,老化による生活パターン(形態,要素)の質的・量的変化を,その段階に応して掌握してゆくことだと考える.これは逆に言えば,本人が掌握できる形に生活パターンを変化させること,とも言える.そしてそのこと―掌握できる形に生活パターンを変えること―が,我々老人のリハビリテーションに携わる者の持つべき重要な機能のひとつであると考える.
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