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はじめに
私は四月の初め,教育学の演習の最初の課題として学生に,「私の教育史―私はどのように形成されたか」というレポートを書かせる.レポートの多くは履歴書を文章化した程度の学校教育中心である.二十歳前後の若者にとって,学校教育が自己形成に大きな影響があったであろう.しかし,家庭教育や社会教育やその他そうした領域ではもれてしまう,有象無象の教育的作用もあったはずである.事実,「君にとって『鉄腕アトム』は何だったのか」と聞くと,マスコミや友人や兄弟姉妹など学校教育外の教育的作用を語りだす.学生に「教育」ということばから連想する語を書かせることもある.すると,まず学校に関係する語が返ってくる.「学校」「教師」「生徒」「教室」「黒板」「宿題」「テスト」など.しかもその「教育」のイメジは「むずかしい」「つらい」「わからない」などマイナスの評価語が多いのが,学校に関わるイメジである.
学生に限らず,私たちの多くは現在,「教育」を涸渇した「学校」のイメジによってしか想起できない.私たちが一人前になるまでには,おそらく,学校教育以外にさまざまな教育的作用があるはずである.このような発想では人間の形成を学校教育中心でしか考えられないことになる.
ここでの関心である理学療法教育(以下PT教育)も作業療法教育(同OT教育)も,専門教育や職業教育を中心にするにせよ,学生の人間形成に関する以上,こうした学校に限定された教育の発想をただ適用したのでは,リハビリテーション学校にしか通用しない教育実践になってしまう.また,理学療法や作業療法という治療自体もおそらく人間の形成にあずかるのであるから,この意味でも「教育とは何か」,常識的な教育の発想そのものを基本的に考察しなければならない.その上で,PT教育やOT教育のための教育理論を構築するべきだと私は考える.
そこで,本稿では,「教育」という概念を広く「リハビリテーション」や「看護」の概念にまで適用できる広さの内包に拡大できる可能性を検討し,次に,PTやOTの教育実践と教育理論との関係を考察するために,教育実践と教育理論(さらに教育思想)との関係を考察したい.本シリーズの奈良勲氏や鈴木明子氏の論文で提起された問題については,こうした論究のなかで答えていきたい.
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