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はじめに
心身障害はこれまで一方的に「正常」からの逸脱,偏奇として冷淡に客体化されて論じられて来たのではないか,と筆者は疑っている.そして,こうした事情は又,進行性筋ジストロフィー児童(PMD児童)の心理について語る時も何ら変るところがなかったのではないかとおそれるのである.それは例えば,後に触れる様に,PMD児童の「知能」について論ずる際に,又「健常」者である我々が治療者としてPMD児童のリハビリテーションに関わってゆく時に,露呈していると考えるのである.
この様な態度は,一言で云えば,PMD児童をその置かれているさまざまな状況から単純に分離抽出して,且つ関わり合う自からの立場は捨象し去って,彼らを単なる対象物として操作してゆく過程に他ならない.個々の児童の個性を無視して,無名化し,集団として処理してゆく立場から一体何が生み出されてゆくであろうか?又,関わり合う一方の当事者である我々の立場についての内省なしに,一体PMD児童の何が論じられるのであろうか?この様な一方的な操作主義的態度は結局,障害者の隔離収容主義と気脈を通じて,誤まった医療政策にむしろ積極的に加担してゆくことになると云って差し支えないであろう.
これに対して,児童と同じ水平に立って,児童の主体性をどこまでも尊重し,かつ社会の正当な(欠くべからざる)一員として,彼らと共に権利,義務,責任,運命を分かち合おうとする立場がある.もとよりこれは単純な心情的同一化ではない.この様な,互に開かれた関係の中でこそ,我々は相互に理解し合えるのであり,且つそれだからこそ我々は彼らについて語り得るのである,と云えよう.
PMD児童の心理について語ろうとする時,上述の如き前提の吟味は欠かせないのである.我々が上空からの俯瞰者の如き態度を捨て去らない限り,彼らは何時までも一種の被害者として存在し続け,その苦痛は決して理解されないであり続けるだろう.
以下は,療養所という一歩誤れば管理と抑圧の機構になりかねない現場の中で,若しかしたら彼らを知らず知らずの間に,或いは,愚かな善意でもって抑圧しているのではないかと恐れつつ体験して来た様々なことがらの要約である.筆者は充分に意をつくしていないかも知れないが,緘黙になりがちな彼らの立場を出来る限り代弁しようと務めている.
更に又,PMD児童の存在が一般にもっとよく理解される様にと願い,ここではその最も典型的なタイプであるデュシャンヌ型を中心にし,且つ心身発達と一般的な病勢進展過程の相関の視点から述べている.そして又,PMD児童の受ける心理的障害を理解しやすくする為に,主としてnegativeな側面を取りあげて述べている.それはこの方が彼らの受けている心理的障害をよりよく理解し,更に一歩進んで,その予防策を講ずる為の手がかりを得るのに適切だと考えるからである.
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