鏡下咡語
「聽」
野原 政雄
1
1NHK
pp.1052-1053
発行日 1983年12月20日
Published Date 1983/12/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1492209715
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耳扁のつく文字には,良い意味の文字が沢山あります。中でも,人格にかかわる表現のものには秀逸のものが多く,「聽,聰,聖,恥,耿」などは,他のものを寄せつけない程,美事なものだということができます。今回取り上げます「聽」もその一つで,これに勝る完全人格をあらわしている意味をもったものは,他に見当たらないと思います。私は,この「聽」という文字こそ,最も大切にしなければならないものと思っています。
その「聽」が,戦後の文字の簡略化で,「聴」になってしまいました。そのために,今日,子供の精神状態がどのようになっているか,皆さんはお気づきでしょうか?「聽」が「聴」と簡略化されたために,所々方々で,ローティーン(10〜15歳)のおかしな現象が起きているのです。今の中学生,よく見ていますと,何となく不十分で,安定性を欠き,間が抜けている。そう思えてなりません。私は,それがちょうど,簡略化された文字「聴」と同じように思えてならないのです。「聴」は,文字そのものに欠陥がある,それに影響されてか,人聞そのものにも欠陥部分が出てきている,そう思えてならないのです。ですから,少々失礼なことをいいますと,聴覚障害という場合の「聴」は,昔の文字「聽」に比べて,文字そのものに字画が足りない,従って,意味も足りない,という障害があるために,あるいは,この方が適当かもしれませんが,それが,世の中全体の状況を示しているようでは困るのです。今の「聴」は,深い意味のある「聽」ではないのです。
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