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私は1969年福岡で開催されました第70回日本耳鼻咽喉科学会において,「耳鼻咽喉科の卒後教育について」のパネリストに開業の一員として参加させていただきましたが,実は私が市井で開業しながら慈恵医大耳鼻科教室にアテンディングドクターとして勤務している関係から,パネルにおける私の話は,もつぱら卒後教育のうち,開業の諸先生に対して私どもの教室で行なつております種々の事業の内の耳鼻展望研修会・鼻副鼻腔手術研修会についてのみ述べましたが,その際に感じました種種の点を中心に補足的に雑感を述べてみたいと思います。
このようなパネリストとして話す場合,人はそれぞれの歩んできた道により物の考え方,感じ方も千差万別でありますので,簡単に私の耳鼻咽喉科の遍歴を書きますと,終戦間近かの昭和20年3月に,一年上のクラスが繰上げ卒業をしたために最高学年となり,同時に医師不足の便法として,現在ではとても考えられませんが,学生のままでただちに大学臨床に配属され,どうせ兵役があるから何科に入つても同じという漠然とした気持で,当時は佐藤教授が主任でした耳鼻咽喉科を訪ねまして,学生ながら教室の出入を許可されました。佐藤先生からは,耳鼻科学は平和産業ですがなかなか面白いですよといわれて,当時は何処の大学教室も人手不足でしたから,いそがしいながらも楽しく勉強しておりました。8月15日終戦となり,米国占領下となると,われわれにはインターン,医師国家試験,と最近まで医育機関でもつとも問題となつた第1号の洗礼を受けたのであります。その間教室は復員する諸先輩で次第ににぎやかになつてきましたが,昭和28年からは水戸赤十字病院へ派遣され約7年在任しているうちに佐藤教授は停年御退任となり,昭和34年に現高橋教授よりのお話のあるままに教室へもどり,しばらくして開業でもと思つている時に,当時日本医師会の副会長をしておられた太田清一先生の病院の耳鼻科のめんどうを見よとのことで川崎市へ通勤いたす事になりました。ここは当時耳鼻科に医師が7名位いてすごくごつた返した臨床の第一線という感じのする耳鼻科でしたが,それがほとんど各違つた大学の医局出身者で,今日行なう直達鏡は何先生だから側臥位だとか仰臥位だとか,手術も各ドクターの術式の相違から看護婦が転手古舞をするなど苦労も多かつたものでした。とかく教室一色になれた私にとつては色々とお互いに勉強になり有意義なものでありましたが,永い勤務生活から漸く別れてよいとのお許しを得て同院を辞し開業する事になりましたが,高橋教授の年来のお考えから,当時日本では少なくとも耳鼻科では何処でもやつていなかつたと思われるアテンディング・システムによるドクターとして勤務せよとのことで,開業の傍ら,非常勤講師として勤務し今日に至つている次第です。私のように,大学の医局生活から,公的私的医療機関への勤務,さらに個人開業と転々と経験致してみますと,その立場立場からして,卒後医学教育というものさらには大学医局問題,専門医制度など,これらに対する考え方は一方的の立場だけであつてはいけないということを痛感せざるを得ません。各観点から物事を観察追求せねばならないと思いますので,結論を急がず漸進的に進むべきものと考えます。
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