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「50歳になっても耳鼻咽喉科の患者だけ診ているような勤務医になってはだめだぞ」と先輩にさとされた。当時私は大学からある公立病院に就職したばかりで意気さかん。耳鼻咽喉科の診療や研究に従事していた。先輩の言は何をいわれているのかはっきりは分らなかったが,自分なりに解釈し,耳鼻咽喉科の診療のみならず,人間の幅をひろげねばならないのだろうと考えていた。颯田前教授はしばしば「耳鼻咽喉科医だけが,本当の声やきこえを知っているのだ。声の良し悪しも,騒音の問題も,マイクロホンよりすぐれた耳を知っている耳鼻咽喉科医が関係しなければ学問はすすまない」といつていられた。耳鼻咽喉科医は小さな孔から病気を治すことに汲々としており,この器官がいかに大事か,この器官の能力がいかに偉大な力をもっているかということを忘れがちである。颯田前教授の教訓は耳鼻咽喉科医は目を大きくひらいて周囲を見渡し,自分の使命を再確認し,なすべきことの幅を広げる必要があることをさとされたものと解釈している。
ところが,また一方故増田教授は「本当の耳鼻咽喉科医になるには20年かかる。20年間診療をやればまずたいていの耳鼻咽喉科の患者がきてもおどろかない」といわれたそうである。この言を伝えきいたとき,私はまだ耳鼻咽喉科医として,7〜8年であつた。自分では耳鼻咽喉科医として立派にやつているつもりでいたが,まだ12〜13年も勉強しなければならないのかなと思うと気の遠くなるような気がした。その20年間といわれた診療の経験をつんだ今になつても,「お前は本当の耳鼻咽喉科医か」といわれると,すぐ「はい,そうです」とは答えにくい。「そうなるよう努力しています」としか答えられない。耳鼻咽喉科学の真髄は非常に深い。40歳をこえるともう体力は昔の比ではなくなり,4時間も手術をすれば,翌日まで疲労が残り,眼鏡をかけたり,はずしたりするようになる。それでも「耳鼻咽喉科の患者は何でもこい」とは断言できない。かえつてこれからしだいに体力がおとろえ,腕がにぶるのではないかと心配している。「50歳になつても耳鼻咽喉科の患者だけ診ているようではだめだ」といわれた先輩の言が身にしみて感じられる。
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