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昨年の耳鼻咽喉科34巻2号から始った西端先生の学会に対する論評は詳細な具体的事実をもとにして,厳しい批判の立場で書かれていて読むものが戸惑うほどであった。私などは若輩で,理事会や評議員会は雲上の出来事と思われるのではあるが,しかし論評は理事会や評議員等の幹事の先生方のために書かれているのではなく,むしろ一般会員にむかって訴えられている面が多いのである。そこで一般会員のはしくれである私でも意見はのべられると考えた。それにしても私にとって不思議に思えたことは,あのような内容の論評なら当然反対意見もあるであろうに,今までそのような意見が発表されていないし,論争と云う形にならず,西端先生の一方的発言に終っていると云う事実である。これは(失礼な申し方ではあるが),西端先生の批判の仕方に問題があるため反論が出ず,一方的発言に終ると云うこともあり得るのではないだろうか。純理論的なものは別として人の性格とか生き方とか,感情的要素と関係の深い事柄についての批判の場台,相手の立場に立ってみて,言うべきことを言わないと,相手は批判を善意に受け取らず,中傷と誤解するであろう。このような場合,正しい討論が発展しないのではないだろうか。批判の目的は相手を正しい立場に立ち直らせようとすることであって,ただ打撃をあたえることではないからである。特に西端先生のように長老的な立場に立たれているとき,御自身では対等の立場で発言されても,対手が後輩の場合,聞く方は怖れを感ずると云うこともあるかもしれない。しかしこれは私の生意気な思い過しかもしれない。実際には問題は別のところにあるのであろうか。討論や論争を恐れる事なかれ主義的な考え方が,それである。
「日本ではイエスもノーも云わないのを和と思い勝だ。自分の意見を云わないような人物を外人は1人前の人格と認めないで軽蔑する。日本人は黙っていてどうかすると蔭で策動する。こんなのは最も悪い。」これ程ではあるまいが,"危きに近よらず""黙殺にしかず"と云う気持が強いと云う事実があると云うこともきいた。これが日本人特有の根性でないことは日本でも各界の論争が長期にわたって誌上をにぎわすことはよく見られることでも判る。危きに近よらずと云う消極性はむしろ臨床医学会特有と考えた方が妥当であろう。民主主義と論争とは一体のものである。特に学問の研究の上で懐疑と討論を抜きにして何が残るであろうか。学問を志すものの生活態度はその点で筋が通っていなければなるまい。そこで西端先生が論争を大いに歓迎されることを希望する次第である。
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