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クラシック音楽の世界ではカラヤン亡き後いわゆる絶対的な大物がいなくなった.かつてはフルトヴェングラーやメンゲルベルク等々泣く子も黙る指揮者がいたが,今はせいぜいアバドやラトル,ハイティンクなどで泣く子は多分黙らない(特にハイティンクなどは泣くどころかすぐに寝てしまう).かと言って現代の指揮者たちは技術的に劣っているわけではない.おそらくフルトヴェングラーの時代と比較すると作りだされる音楽の水準は技術の面で大分進歩したかもしれない.何しろ1回限りの演奏芸術の時代から,レコード,CD,DVD,Blue Rayの時代になり,再生芸術としての評価にも耐えなければならない.インターネットで曲を購入,直接自分のコンピュータにダウンロードし,例えば第一楽章開始何分何十秒のティンパニーのタイミングまで素人が検証できる時代である.演奏会での魂がこもったと言えるほどの熱い演奏も,繰り返し聴くと指揮者自身も赤面するかもしれない.情報が拡散共有されると,昔のようないわゆる大家のカリスマ性の維持は難しくなる.また時代の変遷もある.フルトヴェングラーがナチ協力を疑われて演奏できなかった時代,共産政権を嫌っての亡命先から故国の土を踏んで行ったクーベリックの「プラハの春」コンサート,東西ドイツ統一直後に自らの命を絶った東ドイツのケーゲルなどなど.歴史に翻弄されるということもなくなり聴く側の思い入れの材料も乏しい.現在の指揮者は,思い入れや感情,恣意性を排して楽譜をできるだけ精緻に再現し,その精緻さの中に作曲者がいわんとすることを表現する傾向にある.そこに人間味は要求されないし表現した作品がすべてでありそれ以上の付加はない.カラヤンがたった1人マスターと呼んで尊敬したセルがそうであったし,ヴァントや今活躍しているブーレーズなどの多くの指揮者がその系譜にある.ヴァーチュオーソよりマスターが求められる時代なのだと思う.乱暴ながら政治状況に敷衍すればどうか.かつての大物政治家は影を潜め,かといってこの困難な時代を乗り切るため“再生”に耐えるほど政治技術にすぐれたマスターがいるのかどうか.さてさて,脳神経外科ではどうか….
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