患者の論理・医者の論理[26・最終回]
愛のシステム
尾藤 誠司
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1独立行政法人国立病院機構本部医療部研究課臨床研究支援室
pp.616-620
発行日 2005年7月1日
Published Date 2005/7/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1414100123
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原稿を書きながら外を見ると,桜の木がきれいなピンク色に染まっている.私は桜のことは詳しくないが,この春先,町にピンク色の景色が出現したら,それを桜であると認識することは至極当然の日本人の感覚であろう.もう少し早ければそれは梅として認識されるかもしれない.夏であれば「桜に似た何らかの木に咲く花」,もしくは「桜モドキ」もしくは「桜の看板」と認識したかもしれない.私が,外に出現したピンクを桜であると認識しえたことには,私がこれまで生きてきた経験とともに,日本での生活を通して得た共通の情報を根拠としているのだなあ,と.ここで,ソメイヨシノは実はバラ科の植物なのだよというようなトリビアは,私が桜に関して感じる何かについてそれなりの影響を与えるかもしれないが,なんとなくそんなことは知らなくてもいいことだな,とも思う.
本当に早いもので,この連載を始めてもう2年以上の月日が経ってしまった.最初から最後までなんとなく歯切れの悪い連載だったと思う.これもまた,とても医者らしい.医者という生き物は,自然科学を前にするととても歯切れよく,雄弁になる.一方,自然科学の範疇を超えたところでは,なんとなく場が悪いスタンス,どっちつかずのスタンスになってしまう.われわれ医師が医療現場で遭遇するほとんどの事象は,自然科学的なテーゼを超えた関係性の中にあるものにもかかわらず,医師は,そこに万人が共通して納得するような答えを求める生き物であるように思う.その答えに錯覚があるとすれば,その万人は「医師万人」であることがせいぜいであるはずなのに,それを「この世の万人」という錯覚であろう.
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