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人類愛と民族愛—ナイチンゲールデーにちなんで
金森 德次郞
pp.6-10
発行日 1951年5月10日
Published Date 1951/5/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662200077
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心のさみしさ
人間はしつかりした心の持主のように思つているけれども,その實惱みの子であり悲しみの子であり淋しさの子である。縁あつて人生に生れ來て,日々働いて日々衣食して,日々是れ好日などと氣まぐれなことを言つてはおるものの,どこからか心の中にしのび寄るわびしさを免れることを得ぬ。この心の弱さは一體何のせいだろう。木の葉の落ちるを聞いては心をいたましめる,春の芝草の芽ぐむを見ても溜め息をつく,夕雲が横に流れるのをボンヤリ眺め入りながら思わずも涙ぐましくなつたような經驗を持たない人はないであろう。俳人一茶が色々と寂しい句を作つて「われと來て遊べよ親のない雀」など言つている。陶渕明などの詩を讀むと鳥の飛ぶのにも菊の香るのにも寂しさを語つている。御茶をのんで心を慰める人もあり酒を飮んで氣をはらす人もあり,映畫に演劇にゴルフに野球にと心を充す途は澤山あるけれども心は中々充足することはない。
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