日本泌尿器科臨床史・18
日本における前立腺の認識史—その2
友吉 唯夫
1
1滋賀医科大学
pp.802-803
発行日 1992年9月20日
Published Date 1992/9/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1413900688
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前回紹介した宇田川玄真の『医範提綱』(1808)の5年後に三谷笙洲(しょうしゅう)の『解体発蒙』(1813)という解剖書が出た.図版がかなり多く,それがブランガル(武蘭加児)の原図であるとしるされている.当然のことながら男性泌尿生殖器の解剖図が載っているが,その前立腺を含む部分は図1に示すとおりである.あきらかに前立腺が描かれているが,図の中の臓器名記入はない.精室という名で精嚢は記入されているが,前立腺はまだ重要臓器とは認識されていなかったようである.しかも前立腺尖にあたるところを膀胱下口としている.ところが本文には「摂護」という臓器名が出てくるのである.三谷笙洲独特のルビが付してあるのをそのまま紹介しよう.
「其二個ノ細管(注:射精管)ノ外辺(シタノアタリ),小水管(ショウベンミチ)ノ起処(ハジマリノトコ)ニ,円小内空(マルクチイサナホガラ)ニシテ,形チ心臓(マルギモ)ノ如ク,大サ萬歳子核(オニクルミノタネ)ノ如キ者属リ.此内ニ恒ニ淡精(ウスイセイ)ヲ瀦蓄(タメタクワヘ)シ,時ニ応ジテ注洩(ソソギダシ)シ,以テ小水管ヲ濡潤(ウルオシ)シテ,小水ノ通利(ツウジ)ト真精ノ出飛(トビデル)トヲシテ,能ク快決(スラスラ)ナラシムルナリ.故ニ新訳ニ之ヲ摂護(マモリ)ト云フ.」
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