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令和2年の3月末をもって皮膚科学講座教授を退任となる.産業医大,次いで浜松医大と2つの大学の皮膚科学教室をそれぞれ8年2か月と9年3か月主宰した.楽しかった.が,かなりエネルギーを費やし,頭も体も酸化された.特に産業医大のときはこれ以上できない限界を100%とすると,90数%まで働いたように思う.この数字には地域医療を背景とする交流も含む.つまりは,午前様になるまで小倉の夜を楽しんだ後,帰って論文を直すさまを意味し,しかもザラであった.浜松医大での働きは80〜90%であり,特に任期の終わりのほうは年齢的なものもあり,錆び付いた頭で夜間の仕事ができなくなった.多岐に及ぶ仕事の1つとして,本誌をはじめとしていくつかの雑誌の編者あるいは編集委員をした.和書では『今日の治療指針』において皮膚科領域の編者をした.もっと負荷がかかることに3つの国際誌(JD,JDS,JCIA)の編集長を合わせて9年務めた.退任が間近に迫ってきた今から2年くらい前は,辞めたらどうしようと考えるのは楽しいことであった.バラ色までとは行かなくともコスモス色くらいの生活が待っていることを想像し,小学生が夏休みに入る前の気分であった.しかも人生最後まで夏休みである.パリに2年間住む,いやヘルシンキだ,庵を整備しそこに住む,音楽にどっぷり浸かる,小説を書く,などなど.しかし実際に退任日が近づくと,種々の状況は許さず,その妄想は半分以上砕けた.結局,4月からは浜松医大の細胞分子解剖学講座の特任教授になる.この講座は質量顕微鏡という道具を使って皮膚角層の構成成分を見る仕事もしており,自分にとっては新しい領域を探り,退任時になっても未完遂の仕事を片付けるためにも好弁である.講座名の字面だけを見ると,終に解剖学の教授になったことになる.思いもよらなかった.そもそも学生の頃,解剖はあまり好きな科目ではなかった.何か古典的な感じがして,しかも覚えなければならない名前が非常に多く,意味づけもなく記憶するのは抵抗感があった.ラテン語自体は口に出すと心地良く嫌いでなかったのが唯一の幸いであった.いずれにしろ退任で未知のフェーズに入った.さてさて,件のコスモス色の生活はいつやって来るであろうか.
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