鏡下咡語
藤蔭会のこと
永井 氾
pp.512-514
発行日 2000年7月20日
Published Date 2000/7/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1411902215
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表紙に記されているように,本誌は昭和3年(1928年)1月1日,九州大学の久保猪之吉教授の下,久保より江夫人,立木 豊,笹木 寛,大藤敏三,貝田好美,田中一弘,仁木 堯ら教室員の協力の下で創刊された。発行所は,昭和10年2月、久保先生の退官上京に伴って,港区麻布笄町4の久保先生宅に移り,先生の逝去後,発行所は金原書店に移り,廣瀬 渉,大藤敏三,田中一弘が編集に当たった。終戦後,西端驥一らの「臨床耳鼻咽候科」を合併して,昭和23年4月からは,西端,大藤の編集主幹の下に,九大,慶大,日医大の教室員が協力して今日に至るわけです。
大藤敏三先生は,明治34年(1901年)2月8日,東京に生れ,第一高等学校を経て,九州帝國大学を1926年に卒業し,耳鼻咽喉科学教室に入り,久保猪之吉教授の薫陶を受けた(図1)。後年,当時を回想して(「沙羅の木」p.241)「先生は朝から晩まで,教室に君臨し,和欧専門雑誌の抄録,手術研究と休息の暇も与えず,厳しい教育の手をゆるめなかった。と同時に,新研究への着想の樹立に駆り立てた。しかし,何事も完全でなければならなかった。時には一日中,先生の独文手紙をタイプすることで終わることもあった。先生は一言のミスも許さなかった。誤字があると幾度でもお構いなしにさし戻してくるので,また打つという具合である。医学の報告も実に鋭かった。今の人には一寸、理解困難かも知れないが,正に厳格に徹した徒弟時代であった。同僚がテニスをしたり,酒をのんだりしていても,私にはその暇がないのである。情ない日もあった。所謂自由はきつく束縛された。昔の独乙流の教育と儒教的なものがからみあったような気がする。」
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