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Ⅰ.はじめに
オランダの友人Dr. Paul Knegt(以下,K君と書く)の博士号審査取得の式典は,1987年12月4日に行われた。私は審査員として出席することを要請された。少し,古いことであるが,オランダでは,同じスタイルで現在でもこの式典が行われているので,思い出して書いてみたい。
東大に佐藤靖雄教授(図1)がおられた頃,オランダ,ロッテルダム市のエラスムス大学からK君はやってきた。ロッテルダム市はオランダ第2の都市でヨーロッパ最大の港ユーロポートをもつ。ルネッサンスの人文学者Erasmusの故郷である。K君は,上顎癌の三者併用療法を学びたくて,ユリアナ女王研究資金を申請して許可され,東大耳鼻咽喉科に1974年12月にやってきた。私は佐藤教授から命ぜられエラスムス大学の耳鼻咽喉科主任教授からの依頼状の返書の代筆などをやったせいで,K君の教育係りとしてつきあうことになった。彼は,日本にくると,どこも見物などをせず,4か月,集中して,東大の外来,手術場で,実際に手を下して患者の治療の実施を覚えた。資料集めやその翻訳は私がお手伝いをした。来日して間もなく正月となった。困ったことに,当時正月の3箇日は東京の街中でレストランや食堂が閉じてしまう。外国人は帝国ホテルにでも行かないと食事にありつけないという変な時代だった。私は,2DKの公団住宅のわが家に彼を招待して,正月料理をふるまった。こうして,彼は4か月間がんばって,佐藤教授の三者併用療法の真髄を学びとった。
エラスムス大学に帰ると,頭頸部腫瘍が専門のDe Jong教授のもとで,上顎癌外来を開始し,三者併用療法をはじめた。そして,Sato療法と題して,その成果を次々と発表した。Satoという名は,フランドルの地(オランダ,ベルギー,ルクセンブルグ)で有名な日本人医師としてとどろきわたった。K君は12年たったところで,その成績を博士論文にまとめたのである。私は,佐藤教授の名代として審査員の資格で,K君の栄誉ある式典に参加することになった。
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