連載 あのころ あのとき 29
初めての論文の思い出
保坂 明郎
1
1旭川医科大学
pp.672-674
発行日 2003年5月15日
Published Date 2003/5/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1410101215
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私の青春時代を書くとき,どうしても昭和20(1945)年3月10日,同8月15日に触れないわけにはいかない。わが家はもちろん,十数軒の持ち家(貸家)を一挙に失って貧乏になった日,そして情けないながら,生命の助かったことにほっとした日である。耐乏生活にはどうやら慣らされた日々であったが,今度は経済の急激な悪化とものすごい円安で,旧紙幣の新円交換率は1/10以下で,通学どころか生活費の捻出自体が困難であった。
医学部2学年というのは,どうにも潰しのきかない立場であった。しばらく家庭教師をやっていたが,とても食えるものではなく,ふと思いついたのが英語の通訳であった。東京の中心,日本橋・京橋・銀座・新橋にかけて復興も早く,駐留軍(進駐軍といった)向けの店では通訳が不足していたのである。私は外語大卒の兄から,戦争が終われば絶対に必要になるからということで厳しく英語の訓練を受けていた。戦争中は英語の授業が減らされたため,意外に英語がしゃべれる人が少なく,私程度の会話力でも売り込めたのである。医学生であることを店主に明言し,午前中だけは通学し,午後1時から6時までの5時間勤務で採用してもらった。月給なんと300円(当時は大学卒の普通サラリーマンの初任給が50円程度)で昼食・夕食つきであったから,丸2年間の勤務で卒業までの学費と生活費がほぼ確保される収入が見込めた。「アルバイト」という語が流行する以前の元祖アルバイターでやってきたことを,今でも誇りに思っている。
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