随筆欄
戦後の伯林医科大学を訪ねて
大野 精七
1
1札幌医科大学
pp.915-916
発行日 1955年10月10日
Published Date 1955/10/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1409201262
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私は戦後始めて伯林大学の婦人科を訪ねて見た。婦人科は2講座あつて,大正11年始めて留学した時は第1講座がエルンスト・ブンム教授で,シヤリテイーにある第2講座はカール・フランツ教授であつた。昭和13年私が和蘭アムステルダムに於ける国際婦人科学会に出た折は第1はステツケル教授で,第2はワグナー教授であつた。第2世界戦争で伯林は徹底的に破壊され,チーアガルテンにあるブランデンブルゲル・トールが東西伯林の境界をなしており。ウンテル・デン・リンデン,プリードリツヒ・ストラーセ,ウィルヘルム・ストラーセなどの繁華街や政治文化の中心地は皆ソ聯圏東独逸側であって,旧伯林大学は其の中にある。東伯林の人口は百万であるが周囲の東独に直結して背景は広い。西伯林は人口二百二十万,米英仏三国の占領区域で西独逸から遠く離れておる東独内にある孤島である。もしソ聯軍が之を攻めんとすれば3時間で攻めうると云う不安状態にあったので市街の復興は他の西独逸に比して非常に遅れておる。近頃戦争は先ず起らぬと云う見通しがついてから新建築が諸々に見らるゝようになつた。嘗ては二・三流のクールフイルステンダンム・ストラーゼが今は西伯林第一の繁華な街となり,各商店の物資も豊富に見え,道行く人も多く服装もよい。自動車の数も相当に多い。百貨店KDWも三階造りに新築され,ウエルトハイムは第二の繁華街ステーグリッツ附近に造られておる。
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