- 有料閲覧
- 文献概要
清水先生は厳格その物と云つてよい程厳格な一面を有ておられたが,又他面磊落な所がありそれが時により日によつてくらくら変化するので我々医局員一同がしばしば面食つたものであつた。私が師事していたのは大正8年から大正13年迄で其後他に赴任してからもたまにお伺して色んなことを教えて貰つたのであつたが其間と雖も先生という感じがあるかと思えば上官又は前上官という印象がずつと深くなり驚く事が多かつた。一つは晩年に先生自身告白された如くお若い頃大隈さんに出入しておられた為多分に政治家の様な気分があられたのと,も一つは此方が余りに若かつた為に(当時医専卒業で免状を貰う最若年者は数え年22歳であつた)妥協が出来なかつたせいもあつたろうと考えている。元より厳格過ぎる位厳格であられた先生の心事は弟子の為を思われての事でありそれが我々にどれ丈プラスになつたかは量り知れないのであるが,当時の我々は或は表に不平を洩らし或は裏に不満を抱いていた事は誠に慚愧に耐えない事である。今日に至つて顧みて兎も角,曲りなりにも一人前乃至半人前の婦人科医になつたのであるからほんとに有り難く思つている次第である。
先生が長崎に来られたのは愛知医専教授として洋行せられその儘慶応に転任せられた川添先生の後任教授として赴任せられたのであつて洋行帰りのチヤキチヤキで助手副手を引張つては屡々料亭に赴かれ「酒を呑まぬ様な奴は駄目だ。酒で夜更かしの習慣をつけていなければ夜半の難産の時に困る。」などと烟に巻かれ素質のあるI君等は大いに喜んだものである。所がその後3年位経つと心境の変化を来されたのか,手術中に汗でも出そうものなら「S君,また昨夜酒を呑んだろう。」と叱られるので一層沢山汗が出る始末。尤も後には「エゝ儘よ」と殊更手術前夜に呑んだくれる程度胸が据つた。
Copyright © 1954, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.