感想及び随筆
在鮮二十年の思出
高楠 榮
1
1京城帝國大學
pp.77-78
発行日 1946年7月20日
Published Date 1946/7/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1409200080
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僕が朝鮮に渡つたのは久慈博士の後を繼ぎ現城大の前身たる朝鮮總督府醫院醫官兼京城醫學專門學校教授として大正12年10月末のことであつた,當時歐洲の留學を了へて歸つたばかりの僕にとつては朝鮮といふ所はどんな所か全く不案内で,内心疑惧の念強かつたのである。併し釜山阜頭より廣軌の國際列車に乘り,まづ獨乙式の朝鮮ホテルに落ついた時は,丁度歐州の中流都市の感を與へられ,第一印象は惡くはなかつた。但しホテルに着いたのは早朝のことで霧深く市街の樣子を明かに觀ることは出來なかつたので旅裝を解き午後になり市中に出でホテル附近の各銀行會社の大建造物の羅列して居るのを見て,京城府の市街の型態を推測したのであるが,市中を走る電車の舊式のこと,道路は狭隘で泥濘塵埃に汚れて居ること,白衣の各種人が漫然と行き交ふ有樣,及び電車のなかにをける一種異樣の臭氣や,殆んど各人が遠慮なく床上に放啖する有樣を見た時廣軌鐵道や朝鮮ホテルにをいて得たよき印象も寸時にして影を消したのである,なほ總督醫院はその當時既に20年昔の建造物で,赤練瓦造りの外觀は實に堅牢そのものの觀を呈して居ても,内部の設備萬端は敢えてこれに伴はず,物足らぬ感じを覺えたのは歐州各地の完備したそれ等に接した記憶のなほ新たなるものがあつたによるのであろう。
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