メディカルエッセー 『航跡』・22
チーフレジデント物語—カルチャーショック(1)
木村 健
1
1アイオワ大学医学部外科
pp.744-745
発行日 1998年6月20日
Published Date 1998/6/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1407903207
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1972年7月,ボストンのローガン空港に降り立ったのは正午過ぎであった.スーツケースひとつをもって,期待と不安に心躍らせタクシーに乗り,ダウンタウンのボストンフローティング病院にむかう.人工島の空港からボストン湾の底を貫く海底トンネル(キャラハンであったか,ソマーズであったか記憶にない)を出たときの第一印象は,「なんと汚い街だろう」であった.
古ぼけた4階建てのフローティング病院は,タフツ大学の教育施設であるニューイングランドメディカルセンターの一角をなす小児病院である.もともと感染症にかかったこどもを隔離するため,ボストン港に碇泊する船舶病院として発足したところからフローティング病院という名前がつけられた.80年近く前,碇泊中の船舶病院は船火事を起こして焼け沈み,以来陸に上って今の場所に定着した.1970年当時,ベッド数100床の小児病院は,1マイルと離れていないハーバード大学のボストン小児病院と対抗しながらも幼い患者さまの数は結構多く,繁盛していた.マサチューセッツ州で開業する小児科医の大半は,小児科のチーフであるDr.Sydney Gellisの門下生であったので,わたしの専門分野とする小児外科の患者さまの紹介例にはこと欠かなかった.
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