患者と私
誠実であれ,功を急ぐな
津田 誠次
1
1岡山労災病院
pp.1268-1269
発行日 1966年9月20日
Published Date 1966/9/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1407204091
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我々が大学を卒業した頃は,いわゆるkleines Fachでは,医局生活1年ですでに地方病院へ医長として赴任することができた.内科,外科でも3年もすれば,ひとかどの先生としのて待遇を受けた.私も恩師のすすめで,医局に満2ヵ年も勤めないうちに,台湾総督府医学専門学校教授として台北へ赴任することとなつたが,まだ独身であつた.
医専の付属病院は日赤台湾支部病院であつて,台湾総督府台北医院とは別であつた.赤十字病院の医長が専任の医専の教授で,台北医院の医長は兼任教授であつた.赤十字病院は内科,外科の2病棟で石造りの病室からなり,常夏の台湾では天井も高く廂もふかく床にリノリウムを敷き,涼しく作つてあつた.その頃の台湾人いわゆる本島人が患者の2/3位を占めていた.台湾人のある女性ですでに20歳を過ぎているのに発育が遅く12〜13歳の少女のような患者があつたが,主訴は幽門狭窄で食事が十分にとれず発育が遅延していた.私はその患者に胃腸吻合を行なつたところ,食事が十分に食べられるようになつて非常に患者の喜びと満足とを得た.ある日私が回診していると,その患者はリノリュームを敷いた床の上に跪いて私を拝んで礼を述べた.その時の患者の喜悦と感謝の態度とは深く私に印象づけられた.
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