随想=私の出会った患者
習い覚えた技の功
相澤 豊三
1,2
1国家公務員共済組合連合会立川病院
2慶応大
pp.887
発行日 1982年10月1日
Published Date 1982/10/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541207861
- 有料閲覧
- 文献概要
あくまでも局地解決を叫んでいた政府の声明とは裏腹に支那事変は長期化し,昭和16年12月8日,遂に我が国は米・英とも戦火を交えるに至り,いわゆる大東亜戦争へと突入してしまった.
そのころ,私は慶大内科教室で助手生活すでに10年目を迎えていた.今まで50人近くの医局員を擁して偉容を誇っていた内科教室も櫛の歯をひくように,次々と軍医に応召,夜になると歓送の会に賑わったとはいえ,行き先き知れぬ不安が医局にただよい始めた.第二乙で赤紙の来ない私など肩身の狭い思いをしたものであるが,兵隊に取られないものは満州(現中国東北部)にでも行って,先輩の手助けをすべしという大陸発展政策が打ち出され,まず私に白羽の矢が立った.首都・新京の近く,王爺廟というところに大きな病院があり,先輩がそこで院長をやっているが,内科医がいないから手伝えとのことである.世が世ならば欧米留学というところだが,戦時だから東洋留学とあきらめるがよいと慰めてくれる友もいたが,肝心の私が行く王爺廟なるもの,心細いことに普通の地図にもなく,旅行案内にも載っていなかった.
Copyright © 1982, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.