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1 はじめに
わが国の文献に「外科」という言葉が登場してくるのは,宗田一(著)「図説・日本医療文化史」によれば,南北朝時代につくられた太平記であるという.すなわち,この太平記のなかに「和気・丹波ノ両流ノ博士,本道(内科のこと),外科一代ノ名医数十人……」とあり,これが「外科」という呼称の初出であるとしている.近世まで「医」は本道,すなわち内科のことであり,外科は外から治療する(外治)本道からはずれたものというような認識でしかなかった(図1).
時代は前後するが,鎌倉時代になると盛んに宋や元の医学が輸入されるようになり,このなかに「外科精要」や「外科精義」というようにその表題に「外科」という言葉がみられる医学書が含まれていたことから,これらを受容する過程で日本にも「外科」という呼称が取り入れられるようになったものと思われる.それまでは今日的な意味での「外科」というものは,大宝律令の医疾令(いしつりょう)に記された「創科」というふうに呼ばれていた.また,982年に宮中の典薬寮医・鍼博士であった丹波康頼(912-995)が中国渡来の多くの医書から撰述してまとめた「医心方」には「創腫科」(筆者註:きず,腫れ物医者の意味か)という呼称がみられる(この丹波家は,和気清麻呂が出た和気家とともに宮中において代々典薬頭を世襲してきた由緒ある名門医家である).このように,その当時の「外科医(創傷や腫れ物のようないわゆる外科的疾患を扱う医者という意味)」は,切り傷(金創)を扱ったり体表面の腫れ物(腫瘍)を治療していたことから「腫れ物医者」,「きず医者」や「金創医」などと呼ばれていた.また,「室町安土桃山時代医学史の研究」を著した服部敏良氏は,室町時代のある日記文学のなかに,時宗(一遍上人が開いた浄土宗の一派)の僧侶らが従軍僧として従軍し,戦傷者の看護や切り創(金創)の治療に当たっていたことを示す記述があることから,彼ら時宗の従軍僧が「金創医」,すなわち「外科の専門医」の先駆けであったと考証している.昔の医師が剃髪して僧形をしていたのはこういう事情を反映したものとも考えられる.なお,戦乱に明け暮れた戦国時代になると,ますます専門的に戦傷を治療する医師が必要とされるようになり,武家出身の金創医が現れてきたのである.
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