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I.はじめに
記憶はヒトのすべての精神機能の基礎である。記憶過程に関与する脳内の部位として,海馬(hippocampus)が注目を集めるようになって久しい。しかしながら,海馬が記憶情報を実際にどのように処理しているのかは,今なお謎のままである(宮下1985)。この間題に対して,主に5つの方法論が考えられる。第1に,ヒトの記憶障害の臨床例から,記憶に対して海馬の果たす役割を推測する立場が挙げられる。第2に,動物実験により,海馬またはその関連領域の損傷が記憶課題の学習に及ぼす影響を調べることである。第3に,記憶課題遂行中の動物から,海馬内のニューロン活動を記録して,その機能的相関を調べる方法がある。第4として,海馬のモデルを数学的に構築して,その神経回路網から,何が計算できるかを探ることである。第5には,海馬ニューロンの素子としての性質を,分子レベルから研究していく立場がある。これら5つのアプローチは,互いに密接に関連し,補い合って発展する。1つの方法論だけに固執してしまい,木を見て森を見ないことになってはいけない。例えば,海馬の内部構造の働きを詳しく知ろうとすると,第1および第2の方法だけでは不十分である。また,かつてSperry(1967)が述べた警句は,第5の方法に対する問題提起である。それは,自分の知らない言葉で書かれたメッセージを前にして,インクと紙の化学成分を調べるような方法で解読できるか,ということである。第3および第4の方法にも,その枠組みの中だけでは,技術的困難の故に手がつけられない問題が数多く存在する。
Fig.1Aは,ヒトの大脳の,海馬を含む切断面である。海馬の部分の拡大図をFig.1Bに示した。大脳辺縁系(limbic system)の中核を為す海馬は,特異的な内部構造を持っていることが見てとれる。この海馬の役割とは,いったいどんなものであろうか。海馬の損傷を受けたヒトの場合でも,古い記憶は残っているので,海馬はこうした長期的な記憶の場所ではない。では,いわゆるキャッシュ・メモリーのように,一時的に情報を貯めておくための受動的な入れ物にしかすぎないのであろうか。海馬と記憶の関係について論ずる際に,次の2点について注意しておきたい。記憶には,よく知られているようにいくつかの種類があり,そのどの部分に対して海馬が使われているのかを明らかにしなければならない。また,海馬は,単独で記憶過程のすべてを司るものではなく,ある記憶システムの一つの重要な要素として位置づけられるものである。それでは,海馬に必須な機能を実現するために,どんな神経機構および分子機構が必要とされるのであろうか。
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