- 有料閲覧
- 文献概要
ちなみにこの頃のFreudは医学部学生時代にWien大学生理学教室のE.L.Brücke (1819-92)のもとで基礎医学的研究を開始して,1877年以後20年間に約20篇の神経学関係の論文をものし,1879年に講義を聴いたT.Meynert (前稿参照)の推薦で内科学教授H.Nothnagel (1841−1905:"Seelenlähmung"〔1887〕など脳病理学的研究もある)のもとで助手として臨床神経学を勉強せんとしたが果さず,1883年より1年余りMeynertのもとで精神科助手となってコカイン研究を試み,更に一時Döblingの私立精神病院(Oberstein—er院長)に勤務し,1885/86年のParisとBerlinの遊学から帰国した後は開業して催眠術を研究する傍,1888年にVillaretの医学辞典の"Apha—sie","Gehirn"などの項を執筆し,J.Breuerと「ヒステリー研究」(1895)を発表する,というめまぐるしい生活ぶりであった。彼が失語論を執筆することになった契機は脚註(p.68)から明らかであるが,直接にはBrückeの生理学教室で,後にBrückeの後任となるS.Exnervon Ewarten (1846-1926)がFreudの友人J.Paneth (1857-1890)と試みつつあった視覚中枢や顔面運動中枢に関する研究(Pflügers Arch.37,202&523,1885)に示唆を得たもので,その要旨は既に1886年遊学から帰国直後にWiener Physio—logischer Clubで発表(遊学直前の"Hirnanatomie"に関する講演〔1885〕を指すか?)していた。ちなみにExnerは「純粋失書」の仮説(1881)で有名であるが,彼の大脳学説は神経中枢興奮に量的段階(1894)を認め,「絶対的」皮質野と「相対的」皮質野を区別して「寛和された局在」を主張(1886)するものであった(Hécaen et al.著「大脳局在論の成立と展開」,医学書院,1983)。
Copyright © 1983, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.