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私は文部省の在外研究員として1957年の暮から1958年の初秋にかけて,約10か月間Johns Hop—kinsのWalker教授のもとで過した。時の流れは楽しい思出のみを残してくれるのであろう,その頃のことどもが今でも私の心を暖ためてくれる。私が彼のところを選んだのは特別の理由があつてのことではない。Penfieldでも,Baileyのところでもよいと思つていたのだが,中田先生が「Walkerさんのところなどよいのかもしれないよ,まあ気を楽にして広くみてくるんだね」と云われたのがきつかけとなり,それにJohns Hop—kinsという名にもなんとなくひかれて,そこでおちついてみようという気になつた。半年ぐらいと思つたが夏にかかつたりしてとうとう10か月を過してしまつた。その10か月は静かに暮すことができた。
彼は朝くるとまず手術を始める。彼自身で行なうのはだいたい1日平均1例ぐらいのところで,全体としてもけつして手術数は多くはない。たいへんていねいなおとなしい,確実な手術をしていた。meningiomaで,大脳凸面のもので,くるりととれるようなものまで,被膜に糸をかけて少しずつ引つぱりながら,小綿片と吸引で腫瘍をなでるようにしながら剔出した。脊髄のneurinomaでまつたく教科書的に剔出していたのを思いだす。あとでKölnのTönnisのところでみた脊髄の手術が勇壮活発にみえたのと比較してよい対照であつた。従つて死亡例がほとんどないように思われた。器用さはない。そんな感じをある時助手にもらしたら「いや君の来る前にepilepsyのtemporal lobectomyをテレビに流すというので,あらかじめcraniectomyを行なつておいて,数日後さて本番というときに皮膚を開いたら化膿していてね。いやDr. Walkerのきげんの悪かつたこと……」と苦笑しながら語つてくれた。私はなにかその時救われたような気がした。また聴神経腫瘍と診断されて,開頭したらなにもなく,その後意識が回復せず死亡した例があつた。その死亡した直後受持の助手をつれて私と3人で病院内のコーヒーシヨップの片隅に言葉少なに過したひととき,さすがに淋しそうであつた彼のまなざしがうきぼりにされて思いだされる。
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