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我が國に於ける"腦神經外科外來"の誕生
pp.300
発行日 1951年9月1日
Published Date 1951/9/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1406200229
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日本に腦外科の獨立の要望の聲があがって既に久しい。齋藤翼眞教授はまだ黎明時代の日本にあって茨の道を切り開いて最後には「腦神經外科研究會」の設立という大きな御土産を殘して逝かれた。これは既に年二回の大會に,演題を消化し切れぬ位の盛況である。ここに於てどこかの大學に腦外科という一科が獨立して,その燈壹とも港ともなてつ研究に精進して行かなくてならない必要が増大して來たのである。これに一番關心を示されたのはアメリカのBailey教授である。先年來朝された時日本の腦外科のあり方をみて其必要を痛感され,ロックフェラー財團に援助方を申出でられた。ロックフェラー財團は腦外科設立援助の一環として最新式の腦波器械の寄贈並びに其研究のため,東大淸水教授の渡米を求めて來た。其の後幾多の曲折を經てこの寫眞に示す如き結果となったわけである。即ち昭和26年9月1日をもつて東大第三外科として腦外科が開設された。主任としては當分は淸水教授が兼任,病室も兼用するという貧弱な經濟的内容乍ら,其活動は豫想をはるかに越えて繁忙である。佐野圭司博士は目下米國に留學中であり,鹽月正雄學土は最近アメリカから歸ってこの外來で活躍しておられる。其他たくさんの醫局員,研究見學生等の勉學の場となつて,この一廓は終日活氣を呈している。
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