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我が國に於ける"脳神経外科外来"の誕生
pp.492
発行日 1951年10月20日
Published Date 1951/10/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1407200911
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日本に脳外科の独立の要望の声があがつて既に久しい.斎藤眞教授はまだ黎明時代の日本にあつて茨の道を切り開いて最後には「脳・神経外科研究会」の設立という大きな御土産を残して逝かれた.これは既に年二回の大会に,演題を消化し切れぬ位の盛況である.ここに於てどこかの大学に脳外科という一科が独立して,その燈台とも港ともなつて研究に精進して行かなくてはならない必要が増大して来たのである.これに一番関心を示されたのはアメリカのBailey教授である.先年来朝された時日本の脳外科のあり方をみて其必要を痛感され,ロックフェラー財團に援助方を申出でられた.ロックフェラー財團は脳外科設立援助の一環として最新式の脳波器械の寄贈並びに其研究のため,東大清水教授の渡米を求めて来た.其の後幾多の曲折を経てこの写眞に示す如き結果となつたわけである.即ち昭和26年9月1日をもつて東大第三外科として脳外科が開設された.主任としては当分は清水教授が兼任,病室も兼用するという貧弱な経済的内容乍ら,其活動は予想をはるかに越えて繁忙である.佐野圭司博士は目下米國に留学中であり,塩月正雄学士は最近アメリカから帰つてこの外来で活躍しておられる.其他たくさんの医局員,研究見学生等の勉学の場となつて,この一廓は終日活気を呈している.(在責記者)
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