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研究と報告
刑法改正に関する私の意見 第2篇 不定期刑を中心として(その2)—責任論と刊罰論
My Opinions on the Reform of the Criminal Law
田村 幸雄
Yukio Tamura
pp.1001-1005
発行日 1968年12月15日
Published Date 1968/12/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1405201417
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Ⅰ.意志の自由と刑法の学派
「責任なければ刑罰なし」(Keine Strafe Ohne Schuld.)違法行為者に対し道義的責任を問うには意志の自由が前提となる。適法行為をなしえたのにもかかわらず,あえて違法行為を行なつたところに責任の根拠がある。これが古典派(Klassische Schule)の責任論である。これに対し,Ferriは意志の自由を「純然たる幻想」とよび,犯罪行為は行為者の素質と環境により決定されるものであり,そのさい,他行為可能性,すなわち,適法行為の可能性なるものを否定した。ここに,近代派(Moderne Schule)誕生の基地をみることができる。List一派はいう。社会に侵害を加える危険性をもつ者に対しては,社会は自らを防衛しなければならない。逆にいえば,かような危険な性格をもつ者は,社会から防衛処分を受けなくてはならない。このような社会から防衛処分を受けるべき地位にあるのが責任であると,後者では,危険な性格を責任とみなすので性格責任ともよばれる。両派はともに責任という語をもちいるが,その内容にいちじるしい違いのあることは以上のごとくである。犯罪人に対し,古典派の理論では道義的非難をなしうるが,近代派の考えからはこのような非難ができない。なるほど,違法行為やこれを起こしやすい人は社会にとつて好ましくない。しかし,このような人が,自分の性格を自己の意志で変ええないならば,また,違法行為をどうしても避けえられなかつたとするならば,これに道義的非難をあびせるわけにいかないであろう。精神薄弱児を学業成績不良だからといつて責めることができないのと同様である。
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