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はじめにこういう豪勢なシンポジウムに,われわれ若い者を討論者に選んで,勝手なことをしやべらせていただけることを,深く感謝する次第です。
まず井村先生のお話について質問を述べたいと思います。井村先生のempathyの定義に対して疑義を提出したいんです。非常に広くとられて,2つの層にとられて,そしてempathyというのは,観察,よき聞き手になれる能力と同等のものだといわれるわけです。もちろん先生がそう定義なさるのですから,それはそれで結構ですが,しかしなぜそういうふうに,非常に複雑な現象を,empathyという1つの語に要約しなければならないか。そこが少し疑問だと思うんです。むしろempathyは感情移入であつていい。対象が歴史,物質あるいは感情であれ,いちばん直感的な共振れのところを,それをempathyとよび,それ以上の,たとえば先生がいわれる広い意味,——患者の生活と境遇を背景にして,現在の患者の態度と行動を見なおすということまでempathyにいれる必要が,どうしてあるのか。そうすることは,もつと高度な,知的な,そして分析的な,総合的な作用を含んでいるわけで,それを1つの言葉で,もちろんいつていけないことはありませんが,そうすることは危険ではないかと思うのです。複雑な現象を1つの語で現わすため,複雑な現象の理解をはばむことになる。むしろそういう患者を観察し治療する場合の,先生がおつしやるような患者の症状,生活を背景にして理解していくという,1つの精神療法の方法ですから,それを方法として進めていくということを阻害する危険があるのではないか,こういうことをまず考えます。それから患者の保護も,精神療法家として,非常に完全でないと困難がある,危険があるということを云われました。私は,そういう危険は,むしろempathyだけに頼って治療している時に起こりやすいのではないか,と思うのです。
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