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2011年10月24日,北杜夫氏が腸閉塞で亡くなった。彼は,1927年5月1日の生まれだから,享年84歳である。本名は,斎藤宗吉で,短歌界の巨人・斎藤茂吉の二男であり,兄は日本精神病院協会長も務めた随筆家・茂太氏,父子3人とも,精神科医であった。祖父は斎藤紀一,東京・青山脳病院院長で(北杜夫畢生の大作『楡家の人びと』の作中では楡基一郎となっている)山形出身の,これも精神科医であり,あの高齢で南極やヒマラヤに出かけた快婦人たる娘・輝子の夫にと,同郷山形の斎藤茂吉を養子に迎えたのである。茂吉は東京帝国大学医学部出身の,一時期長崎医専(現長崎大学)の精神科教授も務めた俊秀であり,知る人ぞ知る芥川龍之介の陰の主治医でもある。さて,宗吉は,その青山脳病院で生まれたが,医者になりたくなくて,昆虫採集にうつつを抜かし,かつ北アルプスの山登りに惹かれて,旧制松本高校に遊学した。そこには先輩・辻邦生がいた。彼は卓球部に入り,キャプテンを務め,何とインターハイにも出ている。故郷を出る時の柳行李に入れた,父の歌集『寒雲』を読んで,父の歌のすごさに惹きつけられ,今度は文学を志すも,父茂吉は,「文学では飯は食えない」と手紙で切々と医学部進学を薦め,やむなく折れて東北大学医学部に入ったのだった。卒後,慶應義塾大学の医局に入り,そこで同人誌「文藝首都」を立ち上げた中に,同じく精神科医で作家仲間なだいなだがいた。彼は1960年に,一方で『夜と霧の隅で』なる本格小説で第43回芥川賞をとり,他方で,『どくとるマンボウ航海記』を書いてユーモア・べストセラー作家となり,やがては芸術院会員になった…云々と書いていくと,いつまでたっても,私との関係など一向に出てこず,まるで,伝記のまる写しとしか思ってもらえないので,ここらで,よそよそしい履歴はよして,一気に,筆者との関わりに急転回することにする。
ある日,かの『死霊』で名高い埴谷雄高氏から突然電話が入った。「君は,やまなかやすひろ君という名かね?」「はい,そうですが…」「君は北杜夫君と友人かね?」「めっそうもない,作品はほとんど読んでいますが…」「君が『理想』に書いた『北杜夫論』はわしが今まで読んだどれよりもよく書けとる。北君は,もうこれを読んどるのかね?」「いえ,まだだと…」「じゃ,わしが送っとくからな!」。そこで,電話はガチャリと切れた。そして,1週間後に,今度は北さんご自身から電話。「…あの,キタですが。アナタはヤマナカさんですか?」「はい,そうですが」「『理想』の論文読みました。…ところで,今度,『さびしい王様』が新潮文庫になるので,その解説を書いてくれませんか?」それが,私と北さんとのなれ染めであった。以来,時々電話がかかったり,年賀ハガキが届くようになった。いずれも1つずつだけ紹介するが,「明日から,ボクとこの家の周りだけ,日本から独立することにしました」「え,先生,それまたどうして?」「うちの家に来る人たちから,入国税をいただくことに…」「でも,先生,逆に,先生が門を出られるたびに出国税を取られますよ」「え,それなら,何のトクにもならんじゃないか」「はい」「ボクは,これで,日本への一切の税金も払わなくていい,と思ったのに…」。年賀ハガキのほうは,上半分に,「年賀,忌中,祝合格,悲落第,祝ご出産…云々」と20ほどの入退学卒業冠婚葬祭項目が羅列してあり,そのどれかに○がしてあるだけ。そして,下半分には布団から手足を出して,斜め向きにお行儀悪く寝ている漫画の自画像が描いてあり,「モリオはいま,うつです」と吹き出しの添え書きがしてある。恐らく,前者の電話が「躁」の時,後者の年賀ハガキが「うつ」の時なのであろう。実際,北氏のこのユーモア溢れる「うつ」宣言で,どれだけ多くの躁うつ病患者たちが救われたことだろう。世間的には,「双極性I型障害」とされる北氏に私が前記の解説でつけた正式の診断名は,「一見典型的躁鬱病的気分変動を呈する,多分に癲癇気質の混入した,その実,内気なはにかみを有した分裂気質」としたのであった(『さびしい王様』解説より)。晩年,相当重厚な茂吉論や,親子全集の刊行など,精力的に茂吉の業績をきちんとまとめておかれたのが,とてもよかったと思うのである。
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