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Ⅰ.体力とその限界の意味するもの
与えられた題目が,体力の限界ということであるので,わたしの意味する体力の内容と,その限界とについて,少し述べおくのが順序のようである。体力ということばは,よく使用されるが,いずれも俗語であることが多く,はっきりした定義の示されていることが少ない。とくに,医学の中で,体力という概念は正統派の論ずるところにはなっていないはずである。体力はヒトのからだの機能を主として指しているとはいえ,肺や心臓の生理的機能が,とりもなおさず,体力とはいえない。体力はヒトが,一個の人間として,個性をもち,社会の中での存在を主張する場合にはじめて生まれてくる概念であり,そこでは,価値の対象となるものである。米国をはじめとして,現在世界で通用している英語のphysical fitnessということばは,わたしたちがいう体力とほとんど同じ内容をもっているが,このことばの意味からすれば,人間生活の中から生まれる必要性(need)に適合した体力という規定をもっているように解せられる。すなわち,人間は病気でないというだけでは十分でない。その上に社会に寄与をし,生活を享受するだけの活動性をもたなくては価値が生まれてこないというのも同じ意味であろう。こうした工夫には,体力の限界は,ふつうの生活に適応した範囲内において論じられる。したがって,このときの体力の限界は,人間のからだが到達しうる上限を示すものでなく,市民としての生存と生産の条件によって規定されたものである。
ところが,スポーツの場合には,話はおのずから変わってくる。重量あげ競技では,筋力はその人の最大限にまで高められるべきであり,それ以上高まらなというとき,その限界を決める因子が何であるかが問題になる。それは,生存の水準を上回ることはおびただしいものである。5,000m走や,10,000m走の記録を縮めるのに,一定の速度を維持することを困難にする,その限界となる因子が何であるかが問題となろう。マラソンについても同じである。そして,日本人において,その最高はどこにあるか,また地球上の人間について,その最高はどこにあるかは,人類の体力の限界をさぐる上に意味のあるものである。かつて,「スポーツの記録がいったい何の意味があるのか」という質問に答えて,「それは人類の能力の最高を示すものとして意味がある」という意味の意見を,東竜太郎教授は述べたことがある。これは,1925年に発表された,A. V. Hillの「運動競技レコードの生理的根拠」に思いを馳せさせるものがある9)。ヒトのからだはトレーニングによって変化する。しかし,そこには限界がある。それでは,その限界とは何であるか,それは形態か,機能か,あるいは協調なのか。人間は機械を作り,自然を解明していった。そうして,人間は自分自身をどこまで解明し,改良していくことができるのか。このあたりに面白いところがありそうである。
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