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大統領が暗殺される
3年目の1981年5月の末、ボグラ地域の巡回訪問を終えた日であった。明日はいよいよダッカに帰ると準備をしていた。雨期が始まって暑さも少し和らいで感じられる頃であった。何か事件が起きたらしく物々しい様子が周囲から感じられた。病院のテレビを見ると、ダッカ市内は人気もなく、通りには多くの戦車が動いている。「ジアが殺された」というニュースが聞き取れた。ジアウル・ラーマン大統領が訪問先のチッタゴンで、部下の将校に殺されたという。しばらく安泰であった政治の裏側で不満分子たちのうらみが積み重なっていたのか。地方の田舎の旅先で、情報は限られていた。戒厳令も出されたらしく、国中がアラートの状態なのだ。こういうときは、外出は控えなければならない。治安も悪くなり、偶発的にも何が起こるか分からない。明日のダッカ行きはどうしよう、1日がかりの道程だ。途中は大きなジョムナ川をフェリーで渡らねばならない。危険な旅だ。当時は携帯電話もなく、300キロメートル離れた自宅に連絡しようもない。相談できる人もない。結局、明日の朝の様子を見ることにした。翌早朝、運転手がどうもダッカ行きのバスが出発するらしい、ということを聞いてきた。大雨が降り出した。この雨の中なら、暴動も起こらないだろうし、車が襲われることもないだろうと判断し、バスの後ろについていけば安全だろうとダッカに向けて出発した。もし途中で暴徒に襲われたとしても、物は取られても命を狙うはことないだろう、車が取られたり、壊されたりしても、抵抗はすまい、どこかの家で2、3日過ごすことができると覚悟を固めた。途中、軍の基地(cantonment)の脇を通過するときは大丈夫だろう。道路は車も人気もなく、まず無事に川まで幹線道路を下ることができた。大型のフェリーは運休であったが、それに代わる簡易フェリーがあった。他に乗る車もなかったが、目指す対岸のアリチャまでの1時間、ジョムナ川を下って運航してくれた。そこからダッカ市内までは約1時間だが、幹線道路は案の定人も車もほとんど見当たらず、何事もなく無事に帰宅できたときの安堵感が忘れられない。家では、子どもたちは、急きょ日本人学校のスクールバスで送り返されたらしい。日本の友人が留守宅を訪ねてくれて心強かったという。みんなで私の旅の安全を祈っていた。門内に車を入れ、家族一同、感謝の祈りをささげたのであった。
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