連載 Go to the people——バングラデシュと共に歩んだ私の国際保健50年
第十四編
石川 信克
1,2
1公益財団法人結核予防会
2結核予防会結核研究所
pp.855-859
発行日 2024年8月15日
Published Date 2024/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401210362
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国レベルの結核の対策支援や研究への一歩
村レベルのグループ(ショミティ)による健康づくりの妙味に入る前に、第三の柱である首都結核センターを中心に、1980年ごろのバングラデシュの結核事情を述べてみよう。そのころの正確な国全体の疫学調査はなかったが、当時より15年前の1964〜1965年パキスタン時代に行われた実態調査では、結核有病率は喀痰塗抹陽性で10万対700と推定されていた。X線上の有病率はこの数倍であろう。日本の戦前、戦直後の状態よりも悪かったと思われる。多くの若い人たちが結核にかかり、また亡くなっていた。感染状況としては、15歳までに約半数が、30歳以上で8割以上が結核感染を受けていた。著しく高いまん延状況であった。有病率も都市は農村の2倍、男は女の2倍であった。調査の正確性等から推測すると実際の状況はさらに悪かったであろう。国の結核診療を担っていた機関としては、全国で、ダッカの中央結核センターを含む44の結核専門クリニック、12の結核病院、末端では、350以上の郡保健センターのうち142で結核診療が行えることになっていた。人口対比では200万人に1カ所、普通の人々には遠すぎて受診しにくかった。したがって実際に治療を受けられていた患者は、推定患者の1割以下、また治療を始めた者のうち1年以上の治療を完了できた者は1〜2割程度であった。国の診療体制としては、量も質も全く不十分で、実質的に効果的な結核医療は行われていなかったといえる。
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