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公衆衞生今昔(5)
高野 六郎
pp.391-392
発行日 1947年3月25日
Published Date 1947/3/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401200121
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結核豫防法といふ單行法が出るまでは可なり暇がかゝつたものであるが,法律が出來たからとて中々豫防の實績は上るものではない。大正3年に六大都市へ結核療養所を建てるといふ法律が出たが,大阪の療養所がやつと大正6年に開所し,東京の療養所は大正9年の開所といふ風に遲くれて居る。それに療養所を大都市に申譯ばかりに作つて見た所で,全國の結核豫防上に幾許の效果も期待し得ないのは當然であるから,兎も角法制の體裁だけでも整へやうといふ考から,大正8年に結核豫防法が發布され,療養所設置の義務も人口5萬以上の都市,その他特くに必要な公共團體といふ事に擴大された。一方に於てはサナトリユーム増設で開放患者を收容隔離すると共に,他方では患家に消毒を勵行させ,行政官廳としては,必要な範囲に健康診断を行ひ,危險患者の接客從業を禁止し,適當な消毒を督勵し,公衆の出入する場所に痰壺を置かせるなどの規定があつた。その實績を省みるに,療養所の設置は國の豫算も取れないし,地方の豫算も取れないし,或は豫算がとれると敷地が見つからないといふ有樣で中々埒があかなかつた。思ふにせめて療養所設置だけでも十分に行はれ,而して療養所が自ら結核豫防相談所であり,家庭療養者の指導所であり,更に進んで結核豫防生活の鼓吹者であるやうに發展すれば,その方面からだけでも結核豫防の效果は擧がつたに相違ないのであるが,事實は中々さうは行かなかつた。
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