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公衆衞生今昔(2)
高野 六郞
pp.154-155
発行日 1946年11月25日
Published Date 1946/11/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401200065
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戰爭では人間が減る。その上出生率も減るし,戰後の經濟事情を反映して結核や傳染病や榮養失調で死ぬものも少くあるまい。然し一方には失業問題も起らうし,海外移住の硬塞といふ事情にもなる。こんな際に人口問題の歸趨を決定することは困難であるが,何としても衞生問題が可なり熱烈に論議せらるゝであらうことは疑を容れぬ。
我國の公衆衞生を顧みて,此の前の世界戰爭の後で國民保健が大きく取り上げられ,保健衞生調査會が活動し,各種の豫防法令が發布され,豫防醫學的施策の趣く所は遂に國民優生法の判定を見るまでに及んだ。又醫療制度の改善も種々論究された結果,健康保險施設が擴充され,遂には國民醫療法まで出來上つた。日本は國民人口を持てあましながらも,他面に於て日本の最も優秀な資源は人口のみだとも考へたのである。日本人口の自然増加はどれ位が妥當なのか,日本民族の頭數はどれ位が望ましいのか,それらは人によつて意見を異にするにしても,兎も角生れた以上國民は十分強健でなければならず,強健な國民の生産率は相當高かるべきことが誰にも同意されたのである。從つて米國の産兒制限指導者サンガー女史の來朝に際しても我國の朝野は必ずしも之を歡迎しなかつた。之に遠慮なく共鳴したのは,社會主義的經濟施策を喜ぶ少數の人に過ぎなかつた。然し人口問題研究會などではこの頃は賃銀や失業と關聯して人口に關する研究を進めて居た。適正人口は困難な問題である。
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