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震災発生直後
3月11日マグニチュード9.0の地震が東日本を揺り動かしたとき,私は東京・霞が関の高層ビル街にいた.電車が全線運転停止という異例な交通網の障害が,被害の大きさを物語っていた.携帯もつながらない数時間は,海外にサーバーのあるTwitterのみが情報入手の手段となった.ニュース速報が世界中を飛び回りはじめると,英和ジャーナリストの私のもとには,海外の報道機関からひっきりなしに電話が入った.主に英語圏の報道関係者で,災害直後はテレビ,ラジオ,新聞の速報ニュース関係者が多かった.電話で地震の状況を伝えてくれという依頼もあれば,「次の日から被災地に取材に入りたいからコーディネートしてくれ」というものもあった.自宅と電話がつながらず,自分さえも自宅にたどり着けるのかがわからないまま都内をさまよっているときに,なぜか海外からの電話だけが受信できる仕組みを恨んだ.余震が続き,携帯の地震警告が立て続けに鳴るたびに,「私は高層ビルのがれきの下敷きになるんだろうか」と思わずにはいられなかった.ニュージーランド地震の映像と,9.11テロ事件で倒壊するニューヨークのワールドトレードセンタービルの光景が,一瞬頭をよぎった.そんな中,「新幹線は動いているのか」といった機械的な問い合わせをしてきた海外メディアのうち一社と,翌日から被災地東北へ同行取材をすることにした.
通常1時間のところを8時間かけて,翌12日の朝6時に自宅に到着.荷物をまとめて東京駅へ行き,午後に来日した英国人記者と合流した.高速は閉鎖されているため東北に向け車で側道を走り始めたが,時間がかかり過ぎることに気づいて途中で断念.東京都内に戻る.翌朝一番で山形・庄内空港まで飛行機で飛んだ.
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