特集 リカバリー時代の精神症状論 どうやって「その人」を見ながら?
—個性について—抽象的な言葉は避けて、言いあらわす努力が大切です。
阿部 大樹
pp.38-40
発行日 2025年1月15日
Published Date 2025/1/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.134327610280010038
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はじめに
個性という言葉が初めどのように運用されていたか、というところから始めたいと思います。歴史的にはおよそ19世紀の終わりころにidentityの訳語として考案されたようです。しばらくして1914年、ある華族学校の生徒に向けた講演のなかで夏目漱石が次のように語っています。
—もし私の推察通り大した貧民はここへ来ないで、むしろ上流社会の子弟ばかりが集まっているとすれば、今後あなたがたに附随してくるもののうちで第一番に挙げなければならないのは権力であります。……仕事をして何かに掘りあてるまで進んで行くという事は、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違ありませんが、なぜそれが幸福と安心とをもたらすかというと、あなた方のもって生まれた個性がそこにぶつかってはじめて腰がすわるからでしょう。そうしてそこに尻を落ちつけてだんだん前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、はじめて云いうるのでしょう。
ほぼ同じ時代、対極的に工場労働者たちに対して宮本百合子は随筆『個性というもの』を書いています。
—私たちは、自分の性格というものまで、今日の社会機構の不自然な分業と、その全計画に参加し得ない組織によって労力だけをしぼられているうちに、いつとなく細分され、一面化されている。
個性という言葉はどうにも、世にあらわれた最初の頃からどこか含みのある使い方をされているようです。皮肉がちというか……。
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