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「臓器や病気ではなく人を診よ」という箴言がある.臨床医にとって必須の心構えなのであろうが,言うは易く行うは難し,の典型ではないだろうか.古くから医療関係者に向けて言い習わされているこの言葉を今も頻繁に耳にするということは,現代の医療においてもこの実践が難しいことを表しているのかもしれない.この言葉は,例えば,治癒不能のスキルス胃がんを診るのではなく,不治の病をもったヒトを診なさい,ということを示している.治癒できないという困難ながんをもった一人ひとりの経験を「個別的なこころ」まで含めて理解して治療にあたりケアをしなさいと言っているのである.もちろん不治の病でなくても,救命救急の現場でも過敏性腸症候群や慢性疼痛の診療に際しても,疾患や痛みを抱えた「ヒト」を診なさいということである.筆者自身,精神科医としてがん患者のメンタルヘルスの領域に長くかかわっているが,経験を積めば積むほど,また考えれば考えるほどこの実践は難しい.
翻って,なぜ,臓器や病気ではなく「ヒト」を診ることはこんなにも難しいのであろうか.診療に際して実際に診る対象は主として“身体や臓器や症状”であるのかもしれないが,誤解を恐れず言えば,その身体の持ち主である「ヒト」はさまざまな点でみな異なる.“異なる”の意味するところは,どんな反応がみられるかわからないやっかいな個性的存在でもあることを示唆する.個性と言えば聞こえはよいが,現場では,医療者の理解を超えた現象がよく起きる.そして,医療者もまたヒトであるから,理解できないときに不安,恐怖,困惑を覚える.ガイドラインに沿ったベストな治療を提供しても常に患者や家族が満足するとは限らないのである.ある患者は病を得たという現実を前に不安や落ち込みを感じ,ある患者は治療やケアを提供する医療者に感謝し,そしてある患者は現実を直視できず医療者を戸惑わせる.医療者に怒りが向けられることもある.しかし,私たちは,他人である患者を完全に「わかること」などできるはずもないのである.それでも医療の現場では,「ヒトを診る」ことを求められる.

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