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I はじめに
心理臨床の世界で発生する性暴力/セクシュアル・ハラスメントは,セラピストが加害者になり,その業務対象者が被害者となる場合が多いと考えられる。より具体的には,加害者として想定されるのはセラピスト,コンサルタント,スーパーバイザー,教員等であり,被害者として想定されるのは患者/クライアント,コンサルティ,スーパーバイジー,学生等である。ここから推測されるのは,加害者と被害者の間に明確な権力勾配,すなわち社会的関係上の地位に基づく影響力があり,かつ性愛感情があることが多く,したがって表面的には同意があり,加害者はもちろん被害者も被害にあったとは思っていない,あるいは被害を訴えることをためらうケースが多いだろうということである。そのため本稿では性暴力に代わり性的境界侵犯(sexual boundary violations)という用語を用いるが,患者やスーパーバイジーとの性的接触(sexual contact)は有害だというのが心理臨床の世界でのコンセンサスであることに変わりはない。特に患者との性的接触は,諸外国では多くの職能団体や学会が倫理綱領等で明確に禁止しており(例として,米国心理学会は1992年に,治療終結後2年以内に現在の患者や元患者と性的な関係を持つことを全面的に禁止),ライセンス剝奪の理由になり,米国では犯罪になる州も多数ある。その根幹にあるのは,性的接触に限らず境界侵犯は業務対象者とのあるべき関係を損ない,彼らの弱い立場が悪用される危険性やセラピストの専門家としての判断を鈍らせる危険性があるので,双方の安全を守るために業務対象者との関係には限界を設ける必要があるという職業上の境界(professional boundaries)の考え方である。なお,業務対象者が加害者になるケースとしては,男性患者がセッション中に女性セラピストにセクシュアル・ハラスメントをする例が相当数あることを付記しておく。
心理臨床の世界における性的境界侵犯の実例としては,2023年11月から2024年3月にかけて日本認知・行動療法学会と日本心理学会が,3人の男性会員が年下の女性会員にセクシュアル・ハラスメントをしたとして処分を下したケースが記憶に新しい。とはいえ,本稿では,筆者が専門領域とし,また心理療法として最も長い歴史を有し,性的境界侵犯に関する資料も多い精神分析学界の性的境界侵犯を中心に論を進めたい。

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