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Ⅰ ニーズを創り出す
いただいたテーマは,治療場面における理論に還元されない人間的工夫について,ということだった。理論に縛られずにノビノビと書ける機会はたいへんありがたい。よって本稿も,論文よりはエッセイ寄りの文体で書きすすめることとする。主語も「筆者は」ではなく「私は」でいこうと思うので,ご容赦願いたい。
さて,いきなり結論から書くならば,神田橋條治氏がどこかで書いていたように,要するに「ゆさぶる」ことがポイントである。これは河合隼雄氏が好んだという,「結び目をほどく」比喩とも通ずるイメージだ。ランダムにゆるめたりひっぱったりしながら,ほどいていく行為。ただ,「結び目をほどく」場合は,「ほどく」というゴール意識がやや強めに響くかもしれない。
「ゆさぶる」の良いところは,ゴールが意識されないことである。こちらも神田橋語録だが,氏は精神療法の究極奥義として「行動優位の人には内省を,内省優位の人には行動を処方する」とも言っていた。これも広義の「ゆさぶり」として非常にわかりやすい。ただし問題は,「行動の処方」が言うほど容易ではない,ということ。ひきこもり事例と長くつきあっていると,そのことは嫌というほど思い知らされる。
長年ひきこもり臨床に関わってきたせいか,あまり「治療契約」や「ゴール」について正面からは考えない習慣が身についてしまった。ひきこもり当事者の多くは,最初のうちは「ゴール」はおろか「ニーズ」についてもはっきりした意思を表明しない。「自分はべつに困っていないが,家族に勧められてしかたなく来た」という人が多いためかもしれない。
「ニーズもない人とはやっとれんわ」というセラピストの態度もひとつの見識ではあるだろう。ただ私にはそうした態度が「私は安定した治療意欲を表明できるクライアントしか相手にしません」と言っているように聞こえる。メンタルヘルスに関わるものとして,それはあまりフェアではないと私は考える。うつ病にしても統合失調症にしても,その極期においては「欲望の表出」自体がきわめて困難になるのだから。まあそういうのは臨床心理の対象外,と言われてしまえばそれまでなのだが。
では「ニーズがない人」とどこで,どうやって出会うのか。それは家族の懇請によってであったり,あるいは「放置したら孤独死しそう」といった自治体職員からの要請だったり,さまざまである。つまり当事者はニーズを訴えないが,周囲の関係者は強いニーズを感じている場合などがこれにあたる。こういう当事者もニーズが皆無なわけではないし,ゆるやかに関わるうちに,いろいろと訴えてくることもある。だから私は,基本的にニーズは「一緒に創り出すもの」と考えている。
ともかく,そういう事例に関わる際に,私は「マイルドなお節介」を心掛ける。ほら「サザエさん」に出てくる「三河屋さん」っているじゃないですか。ときどき「まいど~」とアウトリーチしてきて,ご用がなければ「またよろしく~」と帰っていく。マイルドなお節介というのは,そういう「御用聞き」モデルのこと。別に訪問じゃなくても,このスタンスは有効だと思う。強引なセールスはもちろん侵襲的だし,明快なニーズを前提にしたウーバーイーツじゃ届かないこともあるから。
あと最近考えるのは,「斜めからの支援」。たとえば貧困支援の一環としてフードデリバリー用の無料レンタサイクル事業をしている人がいる。内容は完全に貧困支援なんだけど,それを表には掲げない。セルフスティグマが強い当事者は,そういう看板を忌避するから。つまり,スティグマを刺激しない間口を設定して,もし必要があればこころの相談にも応じます,みたいなことができないかと考えている。東畑開人氏も書いていたけど,被災地でこころのケアとか言っても,たいがい嫌がられてしまうから,まずは避難所のトイレ掃除からはじめよう,という話。精神療法に限らないけど,そういう「関わりのための間接性」はすごく大切だと考えている。中井久夫氏の絵画療法にしても,そういう側面が大きかったと思うので。
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