医療史回り舞台
ドイツの障害者の町ベーテル
篠田 達明
1
Tatsuaki SHINODA
1
1愛知県心身障害者コロニー名誉総長
pp.1002-1002
発行日 2019年7月1日
Published Date 2019/7/1
DOI https://doi.org/10.18888/se.0000000966
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1950年代の九州の炭鉱では落盤事故による脊髄損傷患者が多発した。大分県の別府病院整形外科の中村裕医師(1927~1984)は恩師の九大整形外科天児民和教授から英国で脊損患者のリハビリテーションを学んでくるよう勧められた。医師にもリハビリの真意が掴めていなかった時代である。1960年,ロンドンのストーク・マンデビル病院で研修を始めた中村医師は脊損患者が車椅子バスケットに夢中になっている姿に衝撃をうけた。帰国後,脊損患者に車椅子バスケットを広めようとしたが,「脊損には温泉療法がなにより」「ケガをしたら誰が責任をとるのか」といった周囲の反発にはばまれた。それでもめげずにリハビリ普及に力を尽くし,翌61年には第1回大分県身体障害者体育大会の開催にこぎつけた。64年の東京パラリンピックでは選手団長をつとめ,75年に別府市で第1回「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」を開催することができた。10回目から「アジア・パラ競技大会」と改称した第12回大会は18年10月にジャカルタで開かれ,304人の日本選手を含め,43の国と地域の選手4千人が18の競技で競い合った。
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