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東西ドイツ分断時代のドイツ留学
竹光 義治
1,2
1旭川医科大学名誉教授
2大分整形外科病院顧問
pp.914-914
発行日 2021年7月1日
Published Date 2021/7/1
DOI https://doi.org/10.15106/j_seikei72_914
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- 文献概要
ご承知のごとく,1945年5月,ドイツは連合軍に無条件降伏した.その7月,ベルリン郊外のポツダムで開催された首脳国による会談で,ドイツは東西に二分され,東側はソ連が,西側はアメリカ,イギリス,フランスが占領統治することになった.ベルリンは東のソ連側地域であったが,西側3国が頑張って東西に分け,東側はソ連共産主義支配で,西ベルリンは西側資本主義3国が統治することになった.最初は東西の境界は比較的緩く,東ベルリンのかなりの住民が仕事で西ベルリンに通勤していた.しかし,次第に東西の繁栄格差が目立ってくると,知識人と技術者の多くが西ドイツに流出し,東側の産業に致命的な支障をきたすようになった.困った東ドイツ側は,1961年8月13日,突如,一夜にして東西ベルリンの境界部の総延長155kmに有刺鉄線を張り巡らし,その後それに沿って高さ4mの頑丈なコンクリート壁と監視塔を築き遮断してしまった.
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