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2014年末,高倉健,菅原文太という大物俳優が相次いで亡くなった.任侠映画で一世を風靡し,誰もが知っている方々である.もっとも私にとっては「駅STATION」や「幸福の黄色いハンカチ」あるいは「北の国から」で「誠意って何かね」と語っていた両人のほうが印象が強く,その時代の人気がどれほどであったかは当然存じ上げないが,特に高倉健主演のいわゆるヤクザ映画は学生時代によくレンタルビデオやテレビで好んで観たものである.
私が北海道大学整形外科に入局した1997年には,医局は上肢,下肢,脊柱班の3つのグループに分かれており,研修医は3カ月ごとに各班を回り,残りの3カ月を関連病院で学ぶという研修システムをとっていた.この3班の中で,脊柱班は完全なる「ヤクザ社会」といわれ,研修医は大過なく年季を明けることだけを考えていた.帰宅するのが深夜を回ることが多かったことはもちろんのこと,現在ではやや理不尽と思われることも多々あって,その当時のことがトラウマとなり後に専門を上肢や下肢に決めた者もいた.もっとも,脊柱班に所属していた先生方の苦労も多くあったと聞いている.当時の主任教授は胸椎・胸腰椎前方アプローチで世界的にご高名な金田清志先生であったが,その直属の部下である脊柱班の先生方は,夜10〜11時頃まで医局内で教授からの仕事がおりてくるのを待機していなくてはならなかった.教授の部屋の明かりが消えたのを確認するやいなや,クモの子を散らすように一斉に帰宅し,また,あるときには教授の帰宅があまりにも遅いので様子をうかがいに行ったら,腕組みをしたまま寝ていたとの笑い話も聞いた.私が大学院を修了し,脊柱班に所属することを決めた頃には主任教授も代わられていたが,北大脊柱班の体制がそのまま継続されていたなら,脊椎脊髄外科の道に進んでいたかは正直自信がない.
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