連載 続・歴史と遊ぶ・第5回
温泉地と医療
江藤 文夫
1
Fumio Eto
1
1国立障害者リハビリテーションセンター
pp.1024-1028
発行日 2016年8月15日
Published Date 2016/8/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.5001200700
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ブラック・カントリーの思い出
私が英国のバーミンガムに滞在した1980年は,英国にとっては激動の年であった.昨今は耳にすることはなくなったが,当時は働く者のアクション(action)は盛んに行われ,病院でもストライキ(集団勤務放棄)が行われた.日本では経験できない消防署のストライキも行われた.こうしたアクションが一般市民の反感を生まないよう,予告と緊急時の対応については地域ごとのアナウンスがなされていた.バーミンガムはロンドンに次ぐ大都会であるが,地域ごとの情報伝達には拡声器放送も利用されていた.ある夜,タウンホールでのバーミンガム市交響楽団定期演奏会の終了時刻に,バス会社でのストライキがあったが,運行の状況を知らせる拡声器放送が夜風にのって聞こえてきたことを思い出す.
バーミンガムは,たぶん今でも英国の心臓と呼ばれていることと思う.当時の英国は“黄昏”と呼ばれ,自国民も自嘲的にそう口にすることもあったが,ここは唯一活気のある町だった.英連邦下の国々からの有色人種の比率も高く,1950年代のハンガリー動乱時の難民で,移住定着している人々も数多くいた.そして地元の人々は,この地方をブラック・カントリーと呼んでいた.アイザックス(Bernard Isaacs,1924-1995)教授は,コミュニケーションに苦労している私に,「ブラック・カントリーを知っているか」と尋ね,言葉の由来を説明してくれた.Queen's Englishを学んだであろう私にはこの地の訛りがわからないだろうと同情してのことだった.もっともグラスゴー出身の教授自身は,著しいスコットランド訛りで,スタッフを悩ませていた.
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